伝統の歌舞伎界で今も舞台に立つ現役最高齢の名脇役・市川寿猿さん。片や医学界の常識に囚われず闘い続ける医師・和田秀樹さん。開始早々、寿猿さんが歌舞伎の動きを指導し始めたから、さあたいへん。面白異色対談の始まり始まり〜! 『80歳の壁』著者・和田秀樹が“長生きの真意”に迫る連載。3回目。

落ち込まない人は病気になりにくい
和田 寿猿さんが「失敗は成功のもと」と考えるのは、そういったいろいろな経験から来るんですね。
寿猿 僕は失敗しても、落ち込まずにやるようにしました。失敗しても、それ以上に考えてやればいいと思って。
和田 僕は精神科医なんですが、じつは、そういう考えは心の健康にもいいんです。心を病む人たちは、失敗をいつまでも引きずりがちです。だけど悩み続けても、心の具合はよくならないんです。それどころか、かえって悪くなります。
寿猿 僕は落ち込まないからいいんですね。
和田 そうです。落ち込むと、人間は免疫力も落ちますからね。
寿猿 免疫ですか?
和田 はい。免疫は、例えば、ウイルスが体に入って来たり、体の中に小さながん細胞ができたりすると、それを殺してくれようと働きます。心が元気だと免疫力は上がりますが、落ち込んでいると免疫力も落ちる。その結果、病気になりやすくなるんです。寿猿さんは、やっぱり免疫力が高いんでしょうね。
子供の頃の話
寿猿 そうかもしれませんね。病気はしません。だけどね、子どものときに、腎臓炎になりましたよ。顔がむくんでね。
和田 当時は、命がけの病気だったでしょうね。
寿猿 大東亜戦争が始まったころだから、11歳だったのかな。3歳から歌舞伎をやって、僕はずっと舞台に出ていました。
和田 そもそもどんな経緯で歌舞伎を始めたんですか?
寿猿 おっかさんが芝居好きでね。僕を女座長の一座に預けたんです。坂東勝治一座っていう女役者ばっかりの一座ですが、子役だと僕みたいな男の子もいたんですよ。初舞台は『三勝半七』のお通という子どもの役。「ポーンと肩を叩いたら出るのよ」と言われて、舞台に出ていくと、おじいさんとおばあさんが僕を抱いて泣くの。「なんだろう?」と思って客席を見たら、やっぱりみんな泣いている。「なんでみんな泣くのかな?」と思ったのが最初ですよ。それからいろいろやってね、今に至ります。
和田 一気に90年飛んじゃいましたね(笑)。
寿猿 結局ね、親がやらせたんですよ。歌舞伎を僕にね。
和田 戦争中も歌舞伎はやってたんですか?
寿猿 坂東勝治一座は大歌舞伎じゃないから、地方を旅巡業をしていました。戦時中は軍服姿で桃太郎もやりましたね。そんなときでもね、お客さんは見に来てくださるんですよ。空襲警報が鳴ると、お客さんは出ていく。警報が解かれると戻ってきます。
和田 初めて聞く話です。終戦のときは?
寿猿 昭和20年8月15日。北海道で、その夜に芝居をしました。関係者たちが「日本が無条件降伏した」と言っていました。僕は日本が負けたことは信じられなかったけど、町は明るくなりましたね。昨日までは暗闇でね、蛍光塗料のバッジをつけて歩いていたんです。ぶつからないようにね。ああ、本当に戦争が終わったんだと思いました。東京に帰ってきたら、一面、焼け野原でした。

歌舞伎役者。1930年東京都浅草生まれ。主に立役(男役)。屋号は澤瀉(おもだか)屋。女歌舞伎の坂東勝治に入門。二代目市川猿之助や三代目市川猿之助に師事。1975年、二代目市川寿猿を襲名。旧ソ連での歌舞伎公演やスーパー歌舞伎の初演にも参加する。現役最高齢ながら、現在も年間100回近く舞台に立ち続けている。歌舞伎座「錦秋十月大歌舞伎」通し狂言『義経千本桜』の第三部Aプロ(2025年10月1〜9日)に出演。
天井が焼け落ちた歌舞伎座
和田 戦後、GHQによるダメ出しとかはあったんですか?
寿猿 むしろね、戦後になってから楽になったところもありました。
和田 え、そうなんですか?
寿猿 だけど戦後はね、進駐軍がOKすればいい。でも『忠臣蔵』はダメでしたね。
和田 でしょうね。負けたほうが仕返しに来る話ですから。進駐軍は喜ばないですよね。
和田 歌舞伎座も空襲で焼けてしまいましたよね。
寿猿 はい。僕は天井の焼け落ちた歌舞伎座に入ったことがあります。あんなに立派だった歌舞伎座の鉄骨がむき出しになっていてアメンボみたいでした。中に入ると客席もぐちゃぐちゃでね。そこから空を見上げたら星が出てる。その光景は今でも目の裏に焼き付いてます。
和田 終戦後、今のような歌舞伎役者に?
寿猿 僕が大歌舞伎に入ったのは20歳のときです。昭和25年。僕のいた一座の師匠が澤瀉屋(おもだか)の出身の方でしてね。そのご縁で僕は澤瀉屋に入門することになりました。だからもう70年以上、5世代に渡ってお世話になっています。師匠、師匠の兄弟、息子さん、その兄弟、そのまた息子さん。それから團子さん。何人になるんですかね。本当にありがたいかぎりです。
和田 まさに歌舞伎界の生き字引みたいな方ですね。
寿猿 いえいえ。だけど歌舞伎はすごいと思いますね。僕は歌舞伎の家に生まれたわけではないので、坊ちゃん方ほどには伝統を意識しません。
和田 僕はあまり詳しくないのですが、いろんな一門がありますよね。
寿猿 はい。その一門一門に、に代々の芸や名前があります。それを大切に受け継ぎながら、新しいことにも挑戦しています。
和田 スーパー歌舞伎にも出られているそうですね。
寿猿 はい。歌舞伎座では、92歳でね、宙乗りもやらせてもらいました(笑)。ありがたいかぎりですね。

精神科医・幸齢党党首。1960年大阪府生まれ。東京大学医学部卒業後、同大附属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェロー、浴風会病院精神科医師を経て、和田秀樹こころと体のクリニック院長に。35年以上にわたって高齢者医療の現場に携わる。『80歳の壁』『幸齢党宣言』など著書多数。
星になるまで寿猿で
和田 市川寿猿という名は、もう長いんですか?
寿猿 昭和50年に二代目市川寿猿を襲名したので、今年でちょうど50年目です。その前は市川喜猿でした。寿猿というのは 澤瀉屋の血縁の名前なんです。僕はお弟子だから普通は継げない名前なんですが、旦那(三代目猿之助)が「あんた、名前を変えなさい。この中からどれでもいいよ」と3つ4つ出してくれましてね。「寿」の文字がおめでたいと思い、軽い気持ちで寿猿を選びました。血縁の名とは知らなかったんですよ。
和田 いいお名前です。
寿猿 はい。だから当時はね、初代猿翁さんと同じくらいの年代の人がみんな言うんですよ。「あんた、すごい名前がついたね」って。
和田 由緒ある名前をいただいたんですね。
寿猿 はい。旦那(三代目猿之助)は器が大きい方でしたから「がんばって大きくなれよ」という気持ちだったのかもしれません。せっかくいい名前を頂戴したのだから、僕は星になるまで、この名前で通しますよ。
※4回目に続く