18歳にして名門アーセナルの一員となった宮市亮は、度重なる大ケガを乗り越えて前を向き続けた。不断の努力の先にたどり着いた10年ぶりの日本代表。しかしその舞台で、宮市はまたしても大ケガを追った。「引退」の二文字が脳裏をよぎる中、彼は再び立ち上り“過去最高の自分”を実現する決意を固めた。その胸中に迫る4部作の3回目。【#1】【#2】【#4】
度重なる大ケガとの戦いの始まり
「頭の中がはっきりと整理されたのは本当につい最近のことで……それこそ、日本に帰ってきてからだと思います。ヨーロッパでは、本当にずっともがいていました。10年間、ずっと」
5年契約を結んだアーセナルに籍を置きながら、ボルトン、ウィガン、さらにオランダのトゥヴェンテへと期限付き移籍を繰り返した。しかし、その道のりに待っていたのはケガとの壮絶な戦いだった。
まずは2012年。ウィガンに加入して3ヵ月後のことだった。
「なかなか出場機会をもらえないことに焦っていたんだと思います。ここで結果を出さなければアーセナルに戻れないし、次の行き場もなくなってしまう。そんな危機感の中で、余計な力が入ってしまっていたのかもしれません」
練習中に痛めた右足首が普通のケガじゃないことはすぐにわかった。それでも、「ここで離脱したら終わり」と何も言わずにトレーニングを続けた。ごまかしながらでもプレーを続けて、少しでも早く結果を残したかった。しかしそのギリギリのラインを、足首の痛みはすぐに超えた。
「11月のリヴァプール戦でした。その試合が終わった瞬間に『もうダメだ』と。こんな痛みを我慢してプレーし続けることはできない。そう思いました」
検査結果は予想どおりの重症。約4ヵ月に及んだ初めての長期離脱を、懸命のリハビリでなんとか復帰にこぎつけた。しかし、その復帰戦となった3月のFAカップ準々決勝エヴァートン戦で、相手選手のタックルを受けた宮市は再びピッチに倒れてしまう。
「まったく同じ右足首。靭帯断裂でした。あの時の僕は、現実をまったく受け入れられなかった。試合に勝って、みんなが喜んでいるロッカールームで、自分一人だけずっと泣いていたんです。最悪ですよね。自分のことしか考えられない、チームの勝利を素直に喜べない“子ども”でした」
2度にわたる長期離脱は評価に大きな影響を及ぼした。トップクラブで選手に与えられる時間は限られている。アーセナルとの5年契約は、トゥヴェンテに所属した2014-15シーズン限りで満了を迎えた。
新天地ドイツでも続いたケガと心の葛藤
衝撃的なアーセナル加入発表から5年半後。23歳になった宮市は、次なる舞台をドイツに求めた。
3年契約を結んだのはドイツ北部のハンブルクに本拠地を構えるザンクトパウリだ。熱狂的なサポーターがいることで知られるこのクラブは、当時、国内トップリーグではないブンデスリーガ2部に在籍していた。
「ほとんど実績のない僕と3年契約を結んでくれたことは本当に嬉しかった。でも、僕自身は1年で結果を出してすぐに出ていくつもりでした。それくらい強い気持ちで新しいキャリアをスタートさせました」
決意を挫いたのは、またしてもケガだった。開幕前のプレシーズンマッチで左膝前十字靭帯を断裂してシーズンの大部分を棒に振ると、3年目の2017-18シーズン開幕前にも右膝前十字靱帯断裂の大ケガを負い、やはり復帰までに約1年の時間を必要とした。
3年契約のうち、ある程度まともに動けたのは2016-17シーズンの1年だけだった。それでもクラブは複数年の契約延長を打診してきた。今までになかった感情が、宮市の心に浮かんできた。
「本当に遅いんですけど、そのあたりから少しずつ考えて、少しずつ気づき始めるんですよね。自分がサッカー選手でいられるのは誰のおかげなんだろうって。自分はいったい誰のためにプレーしているんだろうって。ただ、その一方で、『ブンデスリーガ2部じゃ絶対に終われない』と思っている自分もいるんです」
俺はもっとできる。こんなところで終わる選手じゃない。ずっとそう思ってきた。ところが、現実は真逆だった。自分はまだ、何ひとつ結果を残していない。
「ずっと、その現実を受け入れられなかった」
18歳になったばかりの頃からたった一人で勝負の世界と向き合ってきた宮市の感情に、小さな変化が芽生えていった。
欧州での失われた10年を経て、日本へ
「ほかの誰かと比較したって、意味がない」
初めてそう思ったのは、ドイツに来て最初の大ケガでリハビリに励んでいた2015年秋のことだ。
その年の夏からブンデスリーガ1部のマインツに加入した武藤嘉紀(現・ヴィッセル神戸)が、第11節アウクスブルク戦でハットトリックを決めた。ベッドの上にいた宮市は、同年代のアタッカーの活躍に悔しさを覚えながらも、どこか達観したメンタリティーで画面を見つめる自分に気づいた。
「それまでの自分は、活躍している誰かの姿を見て『どうして俺だけ取り残されているんだ』と感じることが多くて。あの時も、もちろん悔しかった。でも、活躍している選手と自分を比較したところで、今、ベッドの上にいる自分の状態が変わるわけじゃない。コントロールできるのは他人じゃなくて自分。自分自身のパフォーマンスや振る舞いだけだよなと、そう思ったんです」
プレミアリーグのトップクラブでプレーする。日本代表の一員としてプレーする。そんな大きな目標を、この時はもう、あえて捨てていた。
「まずは自分。自分自身の目の前にある現実にフォーカスするために、目標設定することをやめました。やるべきことを毎日やる。コツコツとやる。それでしか前に進めないと思っていたので」
気がつけば、ザンクトパウリでのプレーは6年目に突入していた。4年目の2018-19シーズンは25試合に出場して5得点、5年目の2019-20シーズンは29試合に出場して1得点と、少しずつだが着実に“結果”を残せるようになってきた。ただ、もう一歩前進するためには、何かを大きく変える必要がある。そう考えるようにもなっていた。
「ヨーロッパでは医療的な部分の難しさを痛感していました。やっぱり、どうしても、自分にとって思いどおりのリハビリができないんです。一人のプレーヤーとしてはヨーロッパでプレーし続けたい。でも、その環境で力を出し切って戦えるだけのコンディションじゃない。すべてを整えて、自分の100%を発揮できる身体を取り戻したい。そのためには、一度日本に戻るべきかもしれない。そう思い始めました」
横浜F・マリノスからオファーが届いたのは、まさにそのタイミングだった。
「正直、驚きました。オファーをいただけるなんて思ってもいませんでした。ただ、自分の特長がチームのスタイルにハマるかもしれないという期待感はありました。そこからの交渉は、ものすごいスピード感で進みました」
2021年7月5日、横浜F・マリノスへの完全移籍が発表された。ヨーロッパでの苦悩の10年を経て、28歳になった宮市は初めてJリーグのピッチに立った。
【宮市亮の短期集中連載】
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