18歳にして名門アーセナルの一員となった宮市亮は、度重なる大ケガを乗り越えて前を向き続けた。不断の努力の先にたどり着いた10年ぶりの日本代表。しかしその舞台で、宮市はまたしても大ケガを追った。「引退」の二文字が脳裏をよぎる中、彼は再び立ち上り“過去最高の自分”を実現する決意を固めた。その胸中に迫る4部作の2回目。【#1】【#3】【#4】
フェイエノールトで感じた特別な手応え
フェイエノールトでの日々は、「最高に楽しい瞬間」の連続だった。
「ここなら絶対に通用する」
最初のトレーニングで手にした確信は、勢い任せの勘違いではなかった。フェイエノールトのマリオ・ベーン監督は18歳の日本人ウインガーを躊躇なくピッチに送り出し、まずは2011年2月6日のフィテッセ戦で初出場。1週間後のヘラクレス戦では、欧州主要リーグでの日本人最年少記録となるプロ初ゴールを記録した。
アジアとヨーロッパ、あるいは日本とオランダのサッカーの違いに戸惑うことはなかった。自分にとっての“武器”が何であるかを、宮市はオランダで再認識した。
「ベーン監督は、試合前日のミーティングで選手それぞれの基本的な動き方をホワイトボードに書くんです。しかも“矢印”だけで。ただ、左サイドに置かれている僕のマグネットには、いつも縦方向にバーンと長い矢印を書かれるだけでした」
ボールを持ったら、縦に仕掛けろ。
矢印が意味するベーン監督のメッセージは、つまり高校時代とまったく変わらないプレースタイルを宮市に求めた。だから、「めちゃくちゃやりやすかった」と振り返る。
サイド攻撃のカルチャーが根付くオランダは、宮市のようなウインガーの育て方をよく知っている。言葉も通じない環境で頭でっかちになることなく、メンタル的な解放感を得て溌剌とプレーさせてもらえたからこそ、宮市は存分に“らしさ”を発揮することができた。
「楽しくて楽しくて、ずっとサッカーに集中していました。寂しさは感じませんでした。英語はなかなか喋れなかったけど、頑張って伝えれば、なぜかコミュニケーションが取れてしまうあの感覚も楽しめていた。当時はまだクルマの免許を持ってなかったから一人だけ練習場まで自転車で通っていたんですけど、それもいい思い出です」
助けてくれる仲間もいた。ともに1992年生まれの同学年にあたるステファン・デ・フライ(現インテル/イタリア)とブルーノ・マルティンス・インディ(現AZ/オランダ)は、宮市が初めてヨーロッパを体感した中学3年のオランダ遠征当時もフェイエノールトの下部組織にいた“顔見知り”だった。
「最初の練習で挨拶した時に、互いに『あ!』と思い出したんですよね。あれは本当に嬉しかった。特にステファンとは気が合って、よく食事に連れて行ってもらいましたよ。同い年だから感性も合うし、本当にたくさん助けてもらった。感謝しています」
監督とチームメイトによる手厚いサポートが、目を見張るパフォーマンスの原動力だったことは間違いない。宮市は結果を残した。後半戦だけで12試合に出場し、3得点を記録。シーズン終了間際にはアーセナルの契約担当スタッフから連絡を受け、「来シーズンはアーセナルの一員として戦ってほしい」との復帰要請を伝えられた。
ここからが本当の勝負だ。気持ちが高ぶらないはずがなかった。
アーセナルで直面した初めての壁
ところが、心勇んで足を踏み入れたアーセナルで、宮市は「初めての挫折」に直面する。
「アーセナルは個のレベルが1段階違いました。リーグタイトルを争うチームの重圧の中で、各国代表のトップレベルの選手が毎日必死にポジションを争っている。トレーニングの質がまったく違うんですよ。本当に誰もミスをしない。ものすごい緊張感の中で毎日が過ぎていきました」
トレーニングで体感する個の質の高さは、1年前の練習参加時に感じたそれとはまったくの別モノだった。ゲストとしての短期間の練習参加で個性を表現することはできても、チームの一員として、シーズンを通じてそのレベルに適応し、パフォーマンスを維持し続けることは簡単ではない。
「サッカーの違いにも戸惑いました。サイド攻撃を重視するオランダは4-3-3のシステムで、左サイドの僕には『縦に勝負しろ』というシンプルな指示が出されるだけだった。でも、アーセナルはパスサッカー。ドリブルで仕掛けられるタイミングなんて、トレーニングの中でさえほとんどなかったんです」
世界屈指のタレント集団は、その技術を駆使してパスコンビネーションで相手を崩そうとする。一方、宮市のストロングポイントは縦に仕掛ける突破力にある。どう考えても、どう工夫しても噛み合わないスタイルの違いに直面し、気持ちは焦るばかりだった。
しかも、与えられた時間は限られていた。そのプレッシャーを感じずにはいられなかった。
「10億円、20億円という破格の移籍金で獲得した選手が次から次へと加入してくる。そんなとんでもない場所で、日本の高校を卒業したばかり、フェイエノールトで半年分の結果を出しただけの自分が『絶対にやれる』と強い気持ちを持ち続けることは簡単じゃありませんでした」
「どうせ使われない」
現実の厳しさに卑屈になった。そんな自分に嫌気が差したが、もはやどうすることもできなかった。
世界トップレベルで「自分を信じる」ことの難しさ
ただ、あの頃の自分が抱えていたネガティブな感情が「ムダ」でしかなかったことは、今となればよくわかる。
「たぶん、ヴェンゲル監督も僕に対して『パスサッカーの中で機能しろ』なんて思ってなかったはずなんです。むしろ逆。チームのスタイルとはまったく違う自分の特長を表現することに意味があったし、求められていたんだと思います。ただ、当時はそんなことを考える余裕がなかった。『このスタイルに適応できなければ通用しないと思われる』と焦るばかりで、自分自身を苦しめていました」
ネガティブな思考は加速するばかりだった。
練習に行くのが怖い。ミスをするのが怖い。これからの若手にとって理想的な環境でトレーニングを積めていることを頭で理解できても、それを楽しむだけの心の余裕はどこにもなかった。どこまでも苦しかった。
チームメイトに対する“憧れの目”を捨てて、同じ目線に立って日々のトレーニングに取り組むべきだった。リスペクトは必要だが、もっと強く自分を信じて勝負を挑むべきだった。今ならわかる。
「強烈に印象に残っているのは、3つ年下のセルジュ・ニャブリです。僕が高校3年の夏に練習参加した時、まだ15歳だった彼は同じタイミングでシュトゥットガルトから練習参加に来ていて、そのままアーセナルに入りました。で、僕がフェイエノールトから戻ってきたタイミングでトップチームに昇格した。すごかったですよ。同じドイツ人のルーカス・ポドルスキやメスト・エジル、ペア・メルテザッカーをちゃんとリスペクトしながらも『俺は絶対に負けてない』という気持ちをいつもプレーで表現していた。俺は俺。最後まで自分を信じる。そういうヤツが上に行くんです」
アーセナルからWBA、ブレーメン、ホッフェンハイムと渡り歩いて2018年からドイツの絶対王者バイエルンでプレーするニャブリは、2022年、カタールW杯でドイツ代表の10番を背負った。今や世界が注目するアタッカーの一人だ。
「彼と同じように、僕自身もチャンスを与えてもらいました。でも、それを生かせなかった。彼と同じように、自分を信じて、自分を表現することができなかった」
自分らしさはどこにあるのか。世界のトップレベルでそれを表現し、結果を残し続けるためには何をどうすればいいのか。
アーセナルで“自分”を見失いかけた宮市は、その答えを探す旅をヨーロッパで続けた。
【宮市亮の短期集中連載】
#3 欧州での失われた10年。プレミアリーグや日本代表でのプレー、大きな目標は捨てていた
#4 「もっと速く走れる」度重なる悲運の大ケガを乗り越えて目指す“過去最高の自分”とは
【関連記事】