18歳にして名門アーセナルの一員となった宮市亮は、度重なる大ケガを乗り越えて前を向き続けた。不断の努力の先にたどり着いた10年ぶりの日本代表。しかしその舞台で、宮市はまたしても大ケガを追った。「引退」の二文字が脳裏をよぎる中、彼は再び立ち上り“過去最高の自分”を実現する決意を固めた。その胸中に迫る4部作の1回目。【#2】【#3】【#4】
戻ってきた日本代表の舞台で、ピッチに倒れた
国内サッカー界における2022年の「マン・オブ・ザ・イヤー」と言えば、宮市亮もその一人である。
“この15年”を追いかけてきたサッカーファンなら、彼の名前を知らない人はいないだろう。1992年生まれ。愛知県出身。18歳にしてイングランド・プレミアリーグの強豪アーセナルに青田買いされた快速ドリブラーは、当時、日本サッカー界がついに輩出したワールドクラスのヤングスターとして特別なスポットライトを浴びた。
しかし、それから10年に及んだヨーロッパ戦歴の大部分を、宮市はリハビリに費やした。
2012年、2013年と立て続けに右足首靭帯を損傷。2015年には左膝、2017年には右膝の前十字靭帯を断裂。たった一度でさえ選手生命を丸ごと奪われかねない大ケガを4度も繰り返し、渡り歩くこと3ヵ国・6クラブ。アスリートにとって何より大切な“時間”は、「離脱」と「復帰」のニュースを繰り返しながら足早に過ぎ去っていった。
舞台を日本に移して2年目の今季、だからこそ、その鮮やかな復活劇に多くのファンが心を踊らせた。
“あの宮市”が、帰ってきた。
横浜F・マリノスの左ウイングとして示したパフォーマンスと結果は、日本代表・森保一監督の目に留まった。迎えた7月、E-1サッカー選手権2022(旧東アジア選手権)に臨む日本代表から約10年ぶりの招集レターが届いた。
期待感は最高潮に達した。香港戦はスタメン出場。中国戦は途中出場。迎えた韓国との第3戦、しかし彼は、またしてもピッチに倒れた。
「これで終わりだ」
痛みで歪む表情の内側で、あくまでドライにそう思った。本人だけじゃない。その瞬間を目撃したすべての人が、あまりにも悲運なストーリーに目を覆うしかなかった――。
あれから5ヵ月後の2022年12月。宮市に聞いた。
ここでもできる。通用する。その感覚しかなかった
「初めて“海外”を意識したのは中学2年生でした。オランダのフェイエノールトというクラブで練習参加させてもらえることになって、その時に初めて、『デ・カイプ』というホームスタジアムでトップチームの試合を観たんですよ。単純に、その経験がヤバかった。あそこで感じた“ヨーロッパのサッカー”の雰囲気が忘れられなくて、『いつか絶対に海外でプレーしたい』と思うようになったんです」
中学時代に在籍したシルフィードFCジュニアユースは、当時、卒業記念を兼ねたオランダ遠征を実施していた。ただ、それとは別に、宮市には約2週間に及ぶフェイエノールトでの練習参加が認められた。“原点”となるこの経験が、あまりにも強烈だったという。
「高校2年で経験させてもらった17歳以下のワールドカップも刺激的だったし、当時、テレビで観ていた日本代表選手は『世界はすごい』『世界の壁は厚い』といつも言ってました。それなら、自分で行って確かめるしかないなと。自分で経験しなければわからないことを、自分で経験してみたかったんです」
日本サッカー界における“1992年度生まれ”は、錚々たるメンバーが名を連ねた「プラチナ世代」である。中でも宇佐美貴史(ガンバ大阪)の存在が、世界との距離を近く感じさせた。
「冗談でも大袈裟でもなく、12、3歳の頃の宇佐美は世界一の選手でしたから。プロになってからワールドクラスの選手を何人も見たけど、中学1年で初めて宇佐美のプレーを見た瞬間の衝撃を超える人は一人もいません。これは本当に。U-17W杯でもブラジル代表のネイマールやコウチーニョよりうまかったですからね。本当にエグかったですよ。マジで憧れてました」
宇佐美がいたおかげで、自身の才能に自惚れることなんて一度もなかった。宇佐美がいたおかげで、世界に対してビビる必要もなかった。
高校2年の冬にはドイツのケルン、高校3年の夏にはドイツのボルシア・メンヘングラードバッハとオランダのアヤックス、さらにイングランドのアーセナルでの練習参加を認められ、ヨーロッパを飛び回った。
アーセナルのトレーニングウェアを着てピッチに立っている自分にはさすがに驚いたという。ふと顔を上げると、そこにはトマシュ・ロシツキー、ロビン・ファン・ペルシー、サミール・ナスリ、セスク・ファブレガス、テオ・ウォルコット、アーロン・ラムジー、ジャック・ウィルシャー、アンドリー・アルシャヴィンなど世界的な名プレーヤーが同じボールを追いかけている。それでも臆することなくピッチに立ち、スピードに乗った。
「短い時間だったけれど、ここでもいいパフォーマンスが発揮できる、自分の持っているスピードが通用するという感覚しかなくて。ネガティブなことは一切考えてなかったし、『やれる』というポジティブなエネルギーを出しまくっていた気がします。アーセン・ヴェンゲル監督も、そういう姿勢を評価してくれたと後で聞きました」
正式な獲得オファーは間もなく届いた。不安なんてどこにもなかった。
「ゼロでしたね(笑)。英語もまったく喋れなかったのに。イギリス英語の発音が難し過ぎて、『Good Mornig』さえまともに聞き取れなかったんです。そんな状態だったけど、楽しみで仕方なかった。いや、まあ、いろいろな経験を積んだ今となってはさすがに恐ろしいことなんですけどね。あの時は何も怖くなかった」
ヨーロッパでの挑戦は、“原点”から始まった
もちろん日本でも、ニュースは一気に広まった。
“愛知の高校生、アーセナルへ”。
前例のない報道の違和感しかない文字面に、受け取る側も戸惑った。
「友達も含めて周りが少しザワついていたかもしれないけど、ぜんぜん気にならなくて。『海外でプレーしたい』という気持ちがとにかく強かったので、たとえ反対意見があったとしても耳を傾けられてなかったのかもしれません」
両親も「お前の人生だから」と背中を押した。
「もともと両親は保守的で、『進学しろ』と。社会人野球をやっていた父はプロの世界の厳しさを知っていたから、ケガのリスクを考えて『学をつけて就職したほうが』と昔から言っていました。そもそも『野球をやれ』と言われたのにサッカーにハマって、『プロになるな』と言われたのにプロを目指して、大学も行かずに高卒で……(笑)。父に反発していたわけじゃないけど、僕自身がそうしたかったんですよね」
宮市は「もともと気が弱い」と自己分析するが、たぶんそれは嘘だ。
明るく朗らかで協調性があるが、一度決めたら曲げない。“自分らしさ”に対する信念が強い。
14歳で体感したフェイエノールトでの日々には、それだけ強烈なインパクトがあった。だからその憧れを貫いた。“海外でプレーする”以外の選択肢は、当時の宮市にはなかった。
18歳でのアーセナルとの契約には、イギリスでの就労ビザが発給されるまでの期限付き移籍が約束されていた。言い渡された最初の所属先は、なんとあのフェイエノールトだった。
「めちゃくちゃ驚いたし、めちゃくちゃ興奮しました。アーセナルは僕が中学2年の時にフェイエノールトの練習に参加していた背景も知ってくれていました。オランダリーグは僕みたいなウインガーを多く輩出しているリーグで、若手を積極的に使おうとするカルチャーもある。最高の環境だと思いました」
そうして宮市は、オランダに渡った。
【宮市亮の短期集中連載】
#3 欧州での失われた10年。プレミアリーグや日本代表でのプレー、大きな目標は捨てていた
#4 「もっと速く走れる」度重なる悲運の大ケガを乗り越えて目指す“過去最高の自分”とは
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