百戦錬磨の男たちが心の拠り所にするパワーアイテムとは? 9人の“勝負師”たちをまとめて紹介。※2025年2月号掲載記事を再編。

- 1.「はたらこねっと」「バイトル」社長の、幸運を象徴する“運命の時計”を公開
- 2.逆境を糧にV字回復! 飲食業界のカリスマ・松村厚久を鼓舞したアイテムとは
- 3.「髪型で闘争心を表現する」サッカー槙野智章の“勝負スイッチ”を入れるアイテムとは
- 4.アートビジネス社長がお守り代わりに持ち歩く、恩師・小山薫堂から贈られたものとは
- 5.“花屋なのに花がない”店…世界的フラワーアーティストの創造性を高める、特別なウイスキー
- 6.元バーニーズディレクターの忘れられない一足。“靴の王様”直筆サイン入りブーツとは
- 7.300年の歴史を有する、御所人形師の家に伝わる守り神とは
- 8.伝説的バーテンダー西田稔の成功を導いた、守り神的「K」パワーとは
- 9.FIFA、コカ・コーラ…次はバスケ。NBA Japan代表・渡邉和史の”勝ち運”アイテムとは
1.「はたらこねっと」「バイトル」社長の、幸運を象徴する“運命の時計”を公開

ディップ代表取締役社長 兼 CEO。1966年愛知県生まれ。1997年にディップを創業し、2004年、東証マザーズ上場。AIで適職を見つけるdip AI、隙間バイトの「スポットバイトル」なども展開している。
「自分は運がいい、そう思うことにしているのです」
総合求人サイト「はたらこねっと」やアルバイト求人サイト「バイトル」などを運営するディップの代表取締役社長兼CEOの冨田英揮氏はそう言って左腕につけた時計を見つめる。2013年に東証一部上場の記念に購入したパテック フィリップの腕時計だ。
「銀座を散歩していた時に入った時計店で見つけたものです。特にこの『ノーチラス アニュアルカレンダー』は、なかなか出合えない希少な1本。ショーケースに並ぶ時計を見るなかで、たまたま目に止まったのがこの時計でした。そういうものに出合えるなんて、やっぱり自分は運がいい、買うしかないと思って迷わず購入しました」
2.逆境を糧にV字回復! 飲食業界のカリスマ・松村厚久を鼓舞したアイテムとは

DDグループ代表取締役社長・グループCEO。1967年高知県生まれ。飲食業界のカリスマ。コロナ禍での激闘の様子が描かれた書籍『熱狂宣言2 コロナ激闘編』が好評発売中。
外食産業ほか、さまざまな事業を手がける、DDグループの松村厚久代表。業界では松村氏のファッションへのアディクトぶりは、つとに知られている。今回は深いネイビーのジャケットに赤と青のチェック柄のベストを合わせ、ボルドーのハットをひょいとのせた出立ちで登場。さらに蝶ネクタイ、ポケットチーフ、ピンブローチは赤で揃えるというこだわりぶりだ。
「赤と青。これは我がグループのコーポレートカラー。いざというお披露目の時や事業の節目を迎えた時、この2色をパワーアイテムとして纏ってきました。そうすることで、自分を鼓舞してきたのだと思います」
3.「髪型で闘争心を表現する」サッカー槙野智章の“勝負スイッチ”を入れるアイテムとは

1987年広島県生まれ。国内、海外チームでのプレイを経て、日本代表としても活躍し2022年現役引退。現在は監督業やサッカー解説者としても活躍する。
トレードマークである七三ツーブロックヘアをジェルでしっかり固める時、槙野智章氏の勝負のスイッチは入る。
「僕にとって髪型は、自分の闘争心を表現する大事なものだと思っているんです」
10代の頃は赤髪のモヒカンや長髪など、さまざまなヘアスタイルでピッチを駆け巡った。現在の髪型に行きついたのは、ドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンに在籍していた2011年頃からだという。
「欧州へ来て出場機会がほとんどない、これまでのように常に見られているという状況ではないからこそ、サッカー選手が誰もしていないような新しいヘアスタイルにして自分の闘争心を表現しようと思ったんです」
4.アートビジネス社長がお守り代わりに持ち歩く、恩師・小山薫堂から贈られたものとは

ヘラルボニー代表取締役/Co-CEO。1991年岩手県生まれ。双子の兄・松田文登とヘラルボニーを創業。Co-CEOとしてクリエイティブ面を統括する。
「自分の人生を変える相手を見つけたら、その人に渡してください――そんな説明とともに、教授の薫堂さんから大学の1年生全員に、ひとりにつき100枚の名刺の束が贈られました。10代で名刺を持てたこと自体がとにかく嬉しくて、渡し方の作法もろくに知らないまま、大人の方に会うたびお渡ししていきました」
学生時代の思い出を懐かしそうに語るのは、知的障害のある作家によるアート作品のⅠPビジネスを展開するヘラルボニーCo-CEOの松田崇弥氏。
岩手県生まれの松田氏が通っていたのは、東北芸術工科大学デザイン工学部企画構想学科。薫堂教授とは無論、放送作家の小山薫堂氏のこと。
5.“花屋なのに花がない”店…世界的フラワーアーティストの創造性を高める、特別なウイスキー

1976年福岡県生まれ。南青山で花屋「ジャルダン・デ・フルール」を営む傍ら、国内外で精力的な創作活動を展開する。
売れ残った花が大量に廃棄される従来のフラワーショップへの疑問から、“花屋なのに花がない”オートクチュールの花束専門店「ジャルダン・デ・フルール」を2002年にオープン。“植物彫刻”と評される独創的な作品群や、成層圏への花束の打ち上げなど、植物による表現の可能性を追求した活動で、世界的な注目を集めるフラワーアーティストの東 信氏。
世界の名だたる美術館やアートギャラリーを舞台にした活動の他、ビッグメゾンとのコラボレーションも数多く手がけ、2016年には世界各地を巡り人々に花と希望を届けるプロジェクト「フラワーショップ希望」もスタートさせた。
「先週までは中国で、その前はアムステルダム。1年の半分以上は海外にいますね」
そう話す東氏のクリエイションの源となっているのが、仕事終わりに飲むウイスキーだ。
6.元バーニーズディレクターの忘れられない一足。“靴の王様”直筆サイン入りブーツとは

1959年東京都生まれ。1991年にバーニーズ ジャパンに入社。クリエイティブ全般を手がける。現在は独立。武蔵野美術大学の非常勤講師も務める。
米国のスペシャリテショップであるバーニーズ ニューヨーク。その美装の殿堂を支えたウィンドウディスプレイの天才、サイモン・ドゥーナン氏に師事し、2023年までバーニーズ ジャパンにてディレクターを務めた谷口勝彦氏。同社が手がけるストアデザインやディスプレイ全般、そして広告ビジュアルにいたるまで、企業イメージに関わるすべてを統括していたのが谷口氏だ。
敏腕クリエイターの手元にアーティスティックな名品が集まるのはある意味当然。私物のみでギャラリーが開設できるほど、多彩なコレクションを谷口氏は所有しているのである。
なかでも思い出深い名品が、マノロ ブラニクのハラコのブーツ。ある意味、谷口氏のキャリアのトピックに立ち会った特別な逸品である。
7.300年の歴史を有する、御所人形師の家に伝わる守り神とは

1971年京都府生まれ。有職御人形司 伊東久重の長男。高校生の頃より家業を手伝い、大学卒業後、父の元で御所人形師の道に入る。
「有職御人形司(ゆうそくおんにんぎょうし) 伊東久重(いとうひさしげ)」家のルーツは、江戸時代初期に京都・四条烏丸で薬種商を営んだ「桝屋庄五郎」だという。手先が器用だった初代が、人形師として身を立て、御人形細工師を名乗ったのがはじまりだ。明和4(1767)年、3代庄五郎が、後桜町天皇より宮廷出入りの人形師として「有職御人形司 伊東久重」の名を賜り、今日にいたる。
透き通るような白い肌や稚児のような愛くるしい姿を持つ御所人形は、代々の宮廷や公家などで愛されてきた。その成り立ちや品格から、人形のなかでも、最も格式の高いものといわれ、初代庄五郎以来、およそ300年にわたり、皇室の慶事などに用いられている。
伊東庄五郎氏は、久重13世嗣(せいし)。高校時代から父である12世久重氏を手伝って人形づくりの基礎を学び、大学卒業後、本格的に御所人形師の道に入った。34歳で初めて自身の作品を発表するまで、ひたすら父を見習い、研鑽を重ねる日々だったという。
「具体的なことは何ひとつ、父からは教えてもらえないのです。父の仕事を見て木を削り、その日できたものを置いておくと、翌朝には父が手直ししている。ここがいけない、となぜ口で伝えてくれないのだろうと苦い思いもしましたが、実際に父が直したことで、格段によくなっている。見習うとはこういうことなのかと思いました」
初作品発表から14年目に伊東庄五郎を襲名。個展を開いた。
「父を目標にしているから、行きつくことはありません。追いつく間もなく、父がどんどん先を行くからです」
そんな伊東氏の心の支えであり、技術的な指針になっているのが、初代がつくった人形、草刈童子だ。享保年間(1716〜1736年)に巷で流行病が広まった時、初代庄五郎が病除けの願いを込めて、子供が薬草を刈る姿を人形にうつし、店先に飾った。その甲斐あってか流行病(はやりやまい)は治まり、以降、伊東家の守り神として玄関に飾られてきた。
8.伝説的バーテンダー西田稔の成功を導いた、守り神的「K」パワーとは

バーテンダー。1964年京都府生まれ。心理学を専攻していた大学在学中、バーでバイトをしたことがきっかけで、話に耳を傾けるバーテンダーを志す。
「僕の人生には、いつもアルファベットのKがあって、それが、よりよい選択へと導いてくれていると信じています」
そう話すのは西田稔氏。バーラバーなら誰もが知る、京都の「Bar K6」のマスターで伝説的バーテンダーだ。これまでに業態の違う数々のバーを立ち上げ、成功させてきた。すべての店名には「K」がつく。そこには幼い頃からのキングへの憧れと自身のジンクスがあった。
「幼い頃、初めてトランプを手にした時、キングのカードに強烈に惹きつけられたんです。堂々たる居ずまいへの憧れというか……。今も『あるじ』という言葉が好きで、それもキングへの思いかもしれません」
9.FIFA、コカ・コーラ…次はバスケ。NBA Japan代表・渡邉和史の”勝ち運”アイテムとは

NBA Japan代表。1974年サンディエゴ生まれ。17歳までアメリカで育つ。博報堂、FIFA、日本コカ・コーラ、IMGなどを経て現職。英語、スペイン語に堪能。中国語も話す。
28年前の興奮が今も忘れられない。
「1996年、当時LAドジャースにいた野茂英雄さんがノーヒットノーランを達成したんです。僕は大学生でテレビ観戦していたんですが、スタジアムの観客が総立ちになって拍手を送っている様子を見て、日本人の可能性、スポーツの可能性を感じました。自分が今から世界的なアスリートになるのは無理。でもサポートはできる。日本人アスリートを世界に送りだしたい。そう考えて、スポーツビジネスの道に進もうと思いました」
2024年10月にNBA Japan代表に就任した渡邉和史氏は、これまで多くの世界的スポーツイベントを支えてきた日本のスポーツビジネスのキーパーソンだ。
2002年のサッカー日韓W杯開催前に広告代理店からFIFAに転職。その後、日本コカ・コーラで数々のオリンピックやW杯などのマーケティングを担当。東京五輪後には、錦織圭選手や平野歩夢選手ら世界的アスリートが所属するスポーツマネジメント事務所、IMG東京支社でバイスプレジデントを務めていた。
「IMGの仕事は楽しかったんですけど、NBA(北米のプロバスケットボールリーグ)が日本支社をつくると聞いて、チャレンジしてみたいと思いました。ちょうど50歳になったタイミングで、残りの人生、全力で突っ走れるのも10年くらい。それなら、代理店、スポンサー、協会、アスリートマネジメントなど、これまで自分が学んできたスポーツビジネスのすべてを注ぎこめる仕事をしてみたいと思ったんです」
そんな渡邉氏が重要なサインをする時に必ず使うのが、結婚した2003年のクリスマスに妻から贈られたルイ・ヴィトンのペンだ。
「一流の人間を目指すなら一流のモノを持つべきという妻のメッセージが込められています。今回のNBA Japan代表への就任を含め、これまでのキャリアのなかで大切な書類にするサインには、このペンを使ってきました。これでサインするたびに『スポーツを通して日本の素晴らしさを世界に伝えていく』という初志、ライフミッションを思いださせてくれる、自分にとっての“道標”のような存在です」