放送作家を中心に活躍する傍ら、NSC(吉本総合芸能学院)の講師として10年連続で人気投票数1位を獲得している桝本壮志さんの対談記事をまとめてお届け! ※2025年1月〜12月掲載記事を再編。

1.あれから10年…次長課長・河本がいま語る、生活保護騒動

桝本 俺はひとりの同期として準ちゃんを擁護する気持ちを持ってるけど、生活保護の一件があってから、準ちゃんがどうやって仕事や人生とかと向き合ってきたかも聞きたいなと思って。この件を俺と喋るのは初めてだけど、あの一件はキツかったでしょ?
河本 むちゃくちゃキツかった。自分自身のことではなく母親の件だったから、どうしていいか分からず困惑するのもあったし、「今までと変わらない姿勢で仕事をしていいのか」って葛藤もあった。これは徳井(チュートリアル・徳井義実)もそうだと思うけど、“食らった人間”にしか分からない圧倒的な圧力ってのがあって、どこかで誰かに「まだふざけてんのか」って言われているような気がするんだよね。
桝本 そうだよね。
河本 でも、お笑い芸人って特殊な職業やから、ずっとふざけんとあかんのですよ。
桝本 他の職業の人は違うよね。たとえばピエール瀧さんは、自分の犯した罪でお茶の間からは一度消えたけど、『地面師たち』でまた大きく評価されている。ソフトバンクの山川穂高選手もスキャンダルを起こしたけど、日本シリーズに行ったことが禊になった感がある。一方で、芸人さんって、禊の場所が一生与えられないんだよね。僕は「それってどうなんだろうな」と思っているひとり。楽しくやっていると、多分ずっと許されないみたいなところが非常にもどかしくて。
この対談でも準は、包み隠さず自分のことを話しているけど、お父さんが何人も代わっている家庭環境を考えても、すごく難しい問題なんだよね。準がどこまで何を把握していたかは本人にしか分からないところでもあるし。
河本 ひとつハッキリ言っておきたいのは、僕自身の認識が甘く、母親の生活保護を終わらせる時期が遅れてしまったのは確かってこと。ただウチの母親については、両腕が動かなくなったことで岡山の役所の人が認定した生活保護の受給者だった。あと当時、僕には母以外にも身内に3人ほど困っている人がいて。その面倒も全部見つつ、目の前で倒れている後輩にもメシを食わせて、さらに自分の家族がいて、子供たちの面倒も全て見なきゃいけなくなって妻もパニックになってしまって。
2.実は同期一番のバケモノ芸人。河本が語る相方・井上聡のすごさ

河本 最近「次長課長が2人で活動しているのを見ませんね」って言われるけど、舞台としては月に10本出ているし、大阪で番組もある。2週間に1回ラジオもやってるし、月の半分は一緒に活動してるね。
桝本 テレビを見る側の人間が間違えがちなポイントは、テレビで見かけなくなる=その芸人さんが終わった、と思いがちなことだよね。
河本 あと、井上としてはもう、テレビは精一杯やりきったと思う。ジャッキー・チェンにも3回も会えてるし(笑)。
桝本 あいつ、芸能界に入ってきた理由は「ジャッキー・チェンに会いたいから」やからな。
河本 そのジャッキーに3回も会って、しかも井上に会うとジャッキーは爆笑する。なぜかといったら、広東語のセリフを完コピしているから。
なので、井上のなかで今は仕事のセカンドステージ。憲さん(木梨憲武さん)と一緒で、もう好きなことだけをやらせてくれという段階。でも、井上とは仲いいよ。僕たちがネタやっている時って、中学生の頃の休み時間の2人そのままだし。「休み時間」って聞くと手を抜いてるみたいだけど、そうじゃなくて、「2人で喋ってるだけで面白い」って感覚。今でも俺は、誰よりも井上を笑かしたいと思ってる。井上が笑うと客も笑うし、その時間が楽しい。
桝本 30年間、そんなに仲よくやれる秘訣は何?
河本 NSC入ってからコンビ組んだ人とは違って、お笑いを目指す前からの仲だから、相方の人となりを分かっていることかな。だからキレる瞬間も、ウケる瞬間も分かる。ダウンタウンさんもナインティナインさんもそうだよね。
3.「40歳くらいで結婚したかった。でもできなかった」チュートリアル・徳井の結婚観【吉本同期・桝本対談③】

桝本 徳井くんも僕も、今年50歳やん。NSCに入った18歳の頃から比べて、50歳の自分ってどう感じてる?
徳井 俺みたいなぐうたらな人間からしたら、上出来やと思うよ。お笑いなんていう世界で、食えてること自体が出来すぎ。でも、30代、40代でもっとネタ作ったり、脚本を考えたり、頑張ってやらないといけないことはあったなと思う。だからこれからの人生では、できるだけモノ作りをしたい。
桝本 ええな。
徳井 芸人としてM-1取って東京に出てきて、がむしゃらにテレビの仕事をして。そこでお仕事をいただけるのも嬉しかったし、徐々に知名度が上がるなかで自分の好きなこともできるようになって。その過程で結局、「自分でモノを作って世間に出す作業が一番好きなんやな」というのが明確になってきたんです。
桝本 すごく分かる。バカリズムさんが脚本を書いたりして活躍している感じを、俺は徳井くんで見たいよ。
4.「2017年のM-1に優勝できなければ、首をくくろうと思っていた」とろサーモン久保田【桝本対談②】

桝本 入った当時の大阪NSCはどうやった?
久保田 当時のNSCの先生で、俺のことを覚えてるやつなんて誰もいないと思うんですよ。同期にはキングコングやなかやまきんにくん、山里(現南海キャンディーズ)もおるわの黄金期ですから。みんな漫才上手くて俺なんて全然入りこめなかったし、実際ネタもほとんどやっていなかったんで。
桝本 でも、当時のテレビ局員から「大阪にとろサーモンっていうおもろいやつがおる」って聞いたのは早かった気がするけどね。大阪にいたのは2002年からの8年間やろ?
久保田 そうですね。ただ3年、4年くらいはオーディションでも落ちまくっていたし、苦労はしましたよ。
桝本 M-1では 2003年の初出場からほぼ毎年準決勝に進出してたよね? 学生時代は全然お笑いを見てこなかったのに、何で面白い漫才を書けたんだろう? 「才能」って言葉を使うとそれまでやけど。
久保田 もし俺が大阪に生まれ育って子供の頃から劇場に通ってたら、笑いを公式に当てはめてつくる芸人になっていたかもしれないと思います。それだと自分の良さが出せなかったし、今の位置にはいないはずですわ。お笑いを何も知らなかった分、いろいろと冒険できたんでしょうね。
5.ピース又吉直樹、コンビ解散危機の夜。桝本壮志としか語れない25年の記憶【対談①】

桝本 今日は「又吉さん」じゃなく、普段のように「まったん」と呼ばせてください。まったんは自著や対談で、自身について色んなことを書き、語ってきた人やから、今回は僕しか知らないところを中心に話そうかなと。
又吉 桝本さんに初めて会ったのは僕が19歳か20歳の頃ですよね。
桝本 うん。初めてまったんを見たのは、当時は西大井にあったNSC。ライブの稽古に行ったら、なぜか先輩芸人に、三角コーンの突端に座らされていたの。
又吉 覚えてないです……。線香花火(又吉の以前のコンビ)時代ですよね。
桝本 そう。でも、ちゃんと話したのは演劇のときかな?
又吉 はい。桝本さん作演の。
桝本 いま振り返ると芥川賞作家に申し訳ないんですけど、僕の舞台に出てくれていたんですよね。吉本興業の方に「宝塚の人をマネジメントすることになったから、宝塚っぽいものを書いてくれ」と言われて、宝塚とお笑いを融合した舞台を書いて(笑)。
又吉 すごくありがたかった、完全にボケ役だったので。
桝本 当時からただならぬ雰囲気を感じていたんでしょうね。他の人たちはガッチリした台本があるんですけど、まったんだけフリーだったから。いまだに覚えてるのは、舞台の2日目か3日目に「桝本さん、僕このホン(脚本)好きですわ」とまったんが言ってくれたこと。僕のお守りみたいな言葉になってます。

