放送作家を中心に活躍する傍ら、NSC(吉本総合芸能学院)の講師として10年以上にわたって人気投票数1位を獲得している桝本壮志さんが、人気芸人・クリエイターと対談する本連載。今回のゲストは桝本さんと旧知の仲であるM-1王者・とろサーモンの久保田かずのぶさん。第2回では、相方・村田さん、そしてM-1ラストイヤーの裏側について。

2003年のM-1初出場からほぼ毎年準決勝に進出
桝本 入った当時の大阪NSCはどうやった?
久保田 当時のNSCの先生で、俺のことを覚えてるやつなんて誰もいないと思うんですよ。同期にはキングコングやなかやまきんにくん、山里(現南海キャンディーズ)もおるわの黄金期ですから。みんな漫才上手くて俺なんて全然入りこめなかったし、実際ネタもほとんどやっていなかったんで。
桝本 でも、当時のテレビ局員から「大阪にとろサーモンっていうおもろいやつがおる」って聞いたのは早かった気がするけどね。大阪にいたのは2002年からの8年間やろ?
久保田 そうですね。ただ3年、4年くらいはオーディションでも落ちまくっていたし、苦労はしましたよ。
桝本 M-1では 2003年の初出場からほぼ毎年準決勝に進出してたよね? 学生時代は全然お笑いを見てこなかったのに、何で面白い漫才を書けたんだろう? 「才能」って言葉を使うとそれまでやけど。
久保田 もし俺が大阪に生まれ育って子供の頃から劇場に通ってたら、笑いを公式に当てはめてつくる芸人になっていたかもしれないと思います。それだと自分の良さが出せなかったし、今の位置にはいないはずですわ。お笑いを何も知らなかった分、いろいろと冒険できたんでしょうね。

1975年広島県生まれ。放送作家として多数の番組を担当。タレント養成所・吉本総合芸能学院(NSC)および、よしもとクリエイティブアカデミー(YCA)の講師。2連覇した令和ロマンをはじめ、多くの教え子をM-1決勝に輩出している。
「村田の方が狂った人間です(笑)」
桝本 M-1初出場から2年経ったころ、めちゃイケの『笑わず嫌い王決定戦』で漫才をやったよね? ボケの久保田がことごとくツッコミの村田にスルーされていく、漫才なのに掛け合わない「スカシ漫才」。あれは当時の漫才の形からかなり逸脱したフォーマットやったけど、狙ってつくったの?
久保田 あのフォーマットは、ホンマの喧嘩が元になってます(笑)。M-1準決勝前に深夜までネタを練り直した時にケンカになって、「何やねん! どうしたらええねん!」「じゃ、もうええわ。俺がボケ言うから、『何やねん。おもんないわ』って言っとけや。突っ込まんのやったら突っ込まんでいいから」「じゃ、そうするわ」って言い合ったのを、そのままネタにしたんです。それを準決勝で披露したら、めちゃくちゃウケた。
桝本 すごいな、リアルな会話がまんまネタになるのが理想的な漫才の創出やけど、普通はできへんよ(笑)。で、大阪から東京に出ていくきっかけは何だったの?
久保田 大阪が求めている枠に僕らがハマらなかったからですね。あと、師匠とか先輩にゴマすってる芸人が山ほどおったのも、自分に合わへんと思っとりました。
桝本 久保田の本(『慟哭の冠』)で初めて知ってんけど、元奥さんは宮崎時代の高校のクラスメイトなんやな。相方の村田と同じクラスに3人おったっていうこと?
久保田 そうですね。だから、いいように言うたら漫画の『タッチ』みたいなもんです(笑)。
桝本 『タッチ』の達也と和也は南ちゃんが好きやん? 村田を交えた三角関係はあったの?
久保田 そういうのはないですけど、村田は付き合っていた俺らを応援してくれていましたし、大阪で初めて住んだマンションも、俺が7階で村田が9階。元嫁は俺の部屋で一緒に住んどった。でも村田って、実は若い頃めちゃくちゃ酒浸りだったんですよ。
桝本 え、そうなの!?
久保田 そうは見えないでしょう。あと、実は村田のお父さんは料理人・陳建民さんのお弟子さんやったんです。
桝本 あの中華の鉄人、陳建一のお父さん?
久保田 そうです。お店で働いていたんですけど、店の酒飲みまくって暴れてクビになって。
桝本 おいおい……。俺さ、村田くんがSMシーンを演じた映画見たことあるんやけど。
久保田 『牝猫たち』ですね。
桝本 あれ見た時に、「あ、こいつもしかして久保田よりヤバいやつかな?」って思った。
久保田 本当はあいつの方が狂った人間ですよ(笑)。

1979年宮崎県生まれ。幼なじみの村田秀亮とお笑いコンビ・とろサーモンを結成し、2017年に『M-1グランプリ』優勝。ピンでも『ドキュメンタル』の優勝で2000万円を手にするなど幅広く活躍。MCバトルでの活躍や絵画作品も評判を呼ぶ。2025年に発売した自伝的小説『慟哭の冠』もベストセラーになっている。
「お前らはまだやれる」神様からのメッセージ
桝本 東京に出てきた時は「俺はやれる」って手応えがあった?
久保田 そりゃ自信しかないですよ。でも、しばらくは全然ダメだった。
桝本 東京に出てきてからM-1に勝つまで何年かかったんだっけ?
久保田 7年くらいですかね。
桝本 長いなぁ。最近の若い人の中には、夢があってもうまくいかないと途中で心が折れてしまう人も多いから聞いてみたい。久保田がお笑いを辞めなかった原動力は何? 嫁の存在? プライド? それとも別の何か?
久保田 俺は社会から見たらクズ人間やし、金もなかったけど、劇場ではどんな奴らと勝負しても俺が圧倒的に笑いを取っていた自信があった。でも、もしM-1のラストイヤー(2017年)でダメやったら、芸人は辞めようと思っていました。
桝本 優勝できなかったら吉本興業で首くくるか、ダンプで会社に突っ込むかの二択って本にも書いてあったね。
久保田 今思えば、神様が俺にチャンスをくれたようにも思うんです。トレンディエンジェルが敗者復活戦から勝ち上がって優勝した年(2015年)、僕らはその敗者復活戦で2位やったんですよ。あれは「まだお前らはやれる」って神様からのメッセージやったなと感じるし、あれがもし2位じゃなかったら……と思うと怖いですね。
桝本 「先輩に媚びて売れる芸人なんてダサい」と思ってた久保田が、途中から人に頭を下げて人脈をつくっていった話も本に書いてあったけど、その心の変化って、どこからきたんだろう?
久保田 僕は別に媚びているわけじゃなくて、ご縁があって呼んでもらった方には筋立てしようと思ったんです。それはいろいろ経験して「ひとりじゃ生きていけない」と分かったから。
桝本 たしかに、昔は妬みや恨みを原動力にしていた久保田が、しだいに優しい人間になっていったように俺も感じているよ。
※3回目に続く