44歳、小野伸二が引退を決断。天才と呼ばれ、喝采を浴び続けた男の光と影。知られざる小野伸二を余すところなく書ききった初の自著『GIFTED』より、一部抜粋してお届けした連載をまとめて公開する。 ※2023年12月掲載記事を再編
1.ジョホールバルの奇跡をテレビで見ていた、仏W杯の7ヵ月前
「フランスワールドカップを目指せ」
キヨショウ(サッカー王国・静岡の名門「清水市立商業高校」)のグラウンドで先生がいきなり言った。
チームメイトたちも、日本代表が初めてワールドカップ出場を決めたことで大盛り上がりをしている。
昨日の夜、“野人・岡野”(岡野雅行)が決めたゴールデンゴールは本当に興奮した。
暑そうなマレーシア、ジョホールバルでイランと対戦していた日本代表には僕よりふたつ上の「ヒデ」が異彩を放っていた。中田英寿さんだ。
そういえば、3年前に初めて「日本代表」のユニフォームを着たとき、ひとつ上のカテゴリに「ヒデ」はいた。すでに有名人で、雲の上のような存在。確か、コーチが言っていた。
「ヒデは、外国に遠征に行っても外国の選手たちと英語で話をしている。そういう意識の高い選手なんだ」
ふたつしか変わらないのに、もうフル代表で戦っているなんてすごい……。
試合は2対2のまま延長戦に入っていた。ゴールを決めたほうがワールドカップ出場。その緊迫感はテレビからも伝わってきた。
そして延長118分。「野人」が決めた。
いつか自分もワールドカップでプレーができたらいいなあ……そんなふうに、いちファンのような感覚だったから、まさかその翌日に先生から「伸二はワールドカップを目指せ」と言われてあっけにとられた。
今が11月。高校卒業まであと4カ月ちょっと。
プロになって3カ月後にはフランスワールドカップだ。
いや、んん? さすがに現実的ではない。
2.1998年フランスW杯、股抜きからのシュートはベストな選択ではなかった!?
「準備、できてなかったらしいな」
岡田(武史)さんが笑いながら僕に近寄ってきた。
何と答えていいかわからず、でも内心「クソッ」って悔しい思いがあった。
フランスワールドカップ。トゥールーズでアルゼンチンに敗れ、前日はランスでクロアチアにも負けた。2戦全敗で僕たち日本代表にグループリーグ突破の可能性はなくなっていた。
最後のジャマイカ戦まで5日間ある。
昨日の試合のやり取りが思い返された。後半になり70分を過ぎた頃だったか、フィジカルコーチのフラビオが声を掛けてきた。
「伸二、アップの準備をしておけ」
城さんとの交代だという。
「はい」
そう答えて、緩めていたスパイクの紐を結び直した。その瞬間だ。フラビオが言った。
「いや、伸二、いい。戦う準備ができていない選手は使わない」
──え?
フランスはものすごい暑さで、蒸して仕方がなかった。スパイクが熱を吸収して暑い。だから僕はスパイクの紐を緩めていた。戸惑いながらも、でもとりあえずウォーミングアップに向かおうとすると、フラビオはそれも手で制した。
結局、そのままベンチから出ることもできず、試合終了のホイッスルを聞いた。
準備って、そこ? そこなの? ……でも、そこなのか。そうだよな。
うーん、でも靴、脱いでるわけじゃないし……。
モヤモヤしていた思いが、岡田さんの言葉で再び蘇ってきた。
その日の練習は試合に出ていた選手はリカバリー、出ていなかった選手はコーチや監督も混じったミニゲームだった。
僕は、岡田さんとフラビオを“股抜き”してやった。
3.「経験のためではなく、ヒデの代わりとして選んだ」岡田武史が語る小野伸二のこと
僕と伸二の関係は1998年が一番、濃いのかな。もちろん、そのあとも彼は日本のサッカー界をけん引していたから、その活躍を目にしていたし、実際に話をすることもあった。(中略)
選ぶことに迷いはなかった。
初めての代表監督だったから、とにかくいろんなシミュレーション──0対1でラスト10分だったらどう攻撃するか、とか、引き分けもいいから守り切るラスト10分とか──をしていたんだけれど、守備はある程度、やれる目途が立った。
ただ、シミュレーションのひとつで、攻撃の軸となる選手がケガをしたらどうするか、というものがクリアにならなかった。当時、核になっていた山口素(弘)、名波(浩)そしてヒデ(中田英寿)……特に、ヒデが出られなくなったときに、攻撃で代わりになる選手をどうするか、というところで「伸二の天才性にかけよう」と決めた。
そのくらい、伸二のボールタッチ、コントロール、相手の逆を突くプレー、ひらめきっていうのはすごかった。代表に選ぶ前から「すごいやつがいる」っていうのは聞いていたけれど、実際に見てもその通りだった。
だから繰り返すけれど選出に関しては全然、悩んでいない。
「未来のために若い選手を経験させるための選出」みたいなことも指摘されていたけれど、そんなことを考える余裕は、当時の僕にはなかったよ(笑)。
目の前の、あの大会で勝つためにはどうするか、しか考えていない。そこに伸二は必要だった、ということ。まあ、ご存じの通り、あのときはカズ(三浦知良)を外すかどうかが一番の議論の分かれ目だったから、伸二で悩む暇もなかったのかもしれない。
第3戦のジャマイカ戦に出したのも、勝つため。
ジャマイカ戦は絶対に勝たなきゃいけないって本当に思っていた。だけれど試合展開的に攻撃で打つ手がなかった。伸二の天才性にかけたわけだ。
第2戦も途中で出させようと思った、という話も聞いたけれど……確かにコーチが(伸二はどうだって)進言してきた気がする。ちょっとそこは覚えていない。
確かなことは、僕にとって伸二は勝つために必要な選手だった。それも特段、特別視しているわけでもなく、シミュレーションのなかに確実に入っていたということ。
とはいえ、ジャマイカ戦のファーストタッチで股抜き、あれは「いきなりそれをやるかね」とは思ったけれどね。
あのプレーが象徴しているけれど、伸二は、どんなときも変わらない。
大舞台だからがむしゃらにやる、ってこともないけれど、緊張して何もできない、ということもない。
ステディなメンタリティを持っていて、淡々となんでもできてしまう。あの試合も、硬さも感じなかったし、サラッとプレーしていたイメージがある。
4.今だから話せる、サッカー人生のなかで最も絶望した試合
試合に出たい、チームに貢献したい。
それにしても暑い。先週まで雪が降っていたのに、なんでこんなに暑くなったんだろう。ピッチにいる選手たちは大変だ。プレッシャーのかかる初戦、みんなよく頑張っている。
じりじりした展開、ピッチで戦う選手たちが疲れてきているのがわかる。
前線のタカ(高原直泰)とヤナギさん(柳沢敦)が前半からよく機能している。相当、走り回っていた。
オーストラリアが交代選手を入れた。75分、もう3人目だ。
アロイージか。でかいな。
ピッチを横目に、ウォーミングアップをしながら次の展開を予測した。
1対0。
後半に入って、追いかける展開のオーストラリアは完全にパワープレーへと舵を切っている。日本としては、中盤でボールを落ち着けたいところだった。
強いディフェンシブな選手を入れてロングボールを跳ね返すか、あるいはフレッシュなフォワードを入れて蹴ってくる選手にプレッシャーをかけるか……どっちがいい?
交代はフォワードか、ディフェンダーか。
出たいけれど、展開的に僕の投入はなさそうだった。
そう思った瞬間、名前を呼ばれた。
「伸二、行くぞ!」
ヤナギさんとの交代だった。すぐのことだった。
ピッチサイドで頭をフル回転させる。落ち着け、ちょっと待てよ。えっと、何をすればいい? ポジションはどうする?
ピッチに向かって走り出した。
5.「ドイツW杯後に初めて、サッカーを辞めようかなと思った」
サッカーを辞めなくて良かった。
スタジアムは、いつも通り真っ赤に染まり、誰もがいい笑顔をしていた。
ギドは今シーズン限りでの退任を発表していた。最後の最後まで試合をする。その思いは叶い、2007年1月1日、僕たちは天皇杯を制した。2006年のリーグ優勝に続いての2冠だ。
当然ながら、達成感があった。
試合に出られないこともあったり、悔しかった時間もあったりした。でも、すごいレベルの高いチームのなかで、常に、もし自分が出ていれば、どうするかを考えて、強度の高い練習に毎日、ワクワクしながら取り組んでいた。
本当に、サッカーを辞めなくて良かった。
6.札幌に残る決断の裏にあった父親業
ご飯はどうするか。稽古は何時か。
小学5年生と暮らすのは初めてだ。というより子どもと二人で暮らすこと自体が初めてで、何もかもが手探りだった。
ウエスタン・シドニーから移籍して結んだコンサドーレ札幌との契約は2年半。次はどこに行こうか、なんてアッキー(小野伸二の代理人・秋山祐輔)と話をしていた。
J1に昇格が決まり、役割を果たした。試合にたくさん出ることはできなかったけれど、次に行くタイミングだった。
昇格を決めたときの札幌の盛り上がりや、チームメイトの姿を見て、「昇格を手助けできるようなチームはないか」と考えるなどもしていた。
そんなとき、次女の里桜が北海道の劇団四季に合格する。
まさか、と思った。こんな機会、滅多にない。娘と暮らすことなんてほとんどなかった。
アッキーに言った。
札幌との契約、2年くらい延ばせないかな?
僕が初めてアッキーにお願いした「延長」の逆オファーだった。