PERSON

2023.12.08

小野伸二「ドイツW杯後に初めて、サッカーを辞めようかなと思った」

44歳、小野伸二が引退を決断。天才と呼ばれ、喝采を浴び続けた男の光と影。知られざる小野伸二を余すところなく書ききった初の自著『GIFTED』より、一部抜粋してお届けする。5回目。 #1#2#3#4

2度所属した浦和レッズでは数々のタイトル獲得に貢献した。©YUTAKA/アフロスポーツ

辞めなくて良かった

サッカーを辞めなくて良かった。

スタジアムは、いつも通り真っ赤に染まり、誰もがいい笑顔をしていた。

ギドは今シーズン限りでの退任を発表していた。最後の最後まで試合をする。その思いは叶い、2007年1月1日、僕たちは天皇杯を制した。2006年のリーグ優勝に続いての2冠だ。

当然ながら、達成感があった。

試合に出られないこともあったり、悔しかった時間もあったりした。でも、すごいレベルの高いチームのなかで、常に、もし自分が出ていれば、どうするかを考えて、強度の高い練習に毎日、ワクワクしながら取り組んでいた。

本当に、サッカーを辞めなくて良かった。

自分が入って負けたという事実

2度目の浦和レッズ所属は、2006年のリーグ優勝と天皇杯優勝、そして2007年のアジアチャンピオンズリーグ制覇と、素晴らしい経験をさせてもらえた。特に2006年のリーグ優勝と天皇杯の2冠は忘れられない。

浦和に戻ってこよう、と決めたとき犬飼基昭さん(当時の浦和レッズ代表取締役)から電話をいただいた。

「アジア、ナンバー1になるために帰ってきてほしい」

そのためにも出場権を獲得しなければいけなかったし、僕のひとつの目標でもあった。チームに戻ってみると、繰り返し書いてきたようにレベルはすごく上がっていた。チームのメンバーは素晴らしくて、何より小学校時代から知っている、親友・ヒラもいた。

そういうメンバーと最高の結果を出せたことは、感慨深かった。

ドイツワールドカップが終わったとき、初めて「サッカーを辞めようかな」と思った。そんな感情が湧き上がってきたことは、サッカー人生のなかでもこのときだけだ。

オーストラリア戦、出場後の3失点、大逆転負け。サッカーはみんなでやるもの。チームの勝敗は、ひとりの責任ではない。

頭でわかっていても、あの衝撃はどんどんと僕のなかで大きくなり、自分の生活のなかから、サッカーを遠ざけたいとさえ思い始めていた。

敗退後、代表チームは解散し、僕は家族とフランスへと旅行に行った。ワールドカップをわざわざ観に来てくれていた妻や0歳の長女やアッキー(小野伸二の代理人・秋山祐輔)と。

のちに、僕を知る多くの人が「伸二が落ち込んだ姿を見せた唯一のとき」と振り返った時期だ。それは僕自身にも自覚がある。

滞在したモナコではほとんど外に出られなかった。というのも、長女がおたふく風邪にかかったからで、看病でいっぱいいっぱいだった。

そのまま僕は、代表メンバーだったツボ(坪井慶介)とアレ(三都主アレサンドロ)オーストラリアで合宿をしていた浦和レッズへ合流した。たぶん、ここからの時間が一番、つらかった。

振り返ってみても、あの代表チームに足りなかったのが何か、はっきりとはわからない。

2002年のワールドカップと比べてしまえば、団結力が足りなかった、といえるのかもしれない。2002年日本代表において秋田(豊)さん、ゴンさん(中山雅史)といったベテラン選手の力が大きかった。

その点で2006年のメンバーにはそういったチームを言動でけん引できるベテランがいなかった。

7月に入り、ワールドカップもいよいよベスト4が出揃った頃、ヒデさんが現役引退をする、というニュースを見た。びっくりした。

ヒデさんは、ヨーロッパでプレーする選手たちをいつも気にかけてくれ、代表での試合が終わればご飯に連れていってくれた。いろんな人を紹介してくれて、そのままいなくなっちゃうこともあった。ブラジル代表の試合を隣で観ていたとき、「あの選手、誰?」って、全然、海外の選手のことを知らなくてびっくりした。

とても気を遣う人だった。でも……、「引退するって決めていたなら、もっと早く言ってくれれば、違う団結力が生まれたんじゃないか」と正直思った。ブラジル戦が終わったあと、ピッチに倒れ込んでいたのもあとから知った。

それでも、ただ「団結力」だけが原因だったのか、といえばそうとも言い切れない。

チームのムードは決して悪くはなかった。元気がない人がいると、つい手を差し出したくなる性格の僕は、たくさんの人に声を掛けていた。それはチームのため、とかそういう思いもあるけれど、何より自分の空間で「楽しんでないな」と思っている人がいるのが、耐えられないのだ。

そんななかで、今回だけは僕自身がふさぎ込んでしまった。決して、それを外に悟られないように、いつも通りに振る舞っていたけれど、確かにそれまでの元気なバスの移動も活力が出なかった。

期待が大きかっただけに敗退後の批判も苛烈(かれつ)だった。

直接、敗退の原因として名指しされることもあれば、チームの雰囲気を悪くした、と書かれたこともあった。

あるときは、スタメン組と控え組に分かれ、僕は控え組だったが「チームが険悪な雰囲気になっている」とメディアに書かれたこともある。そういう雰囲気が伝播していった、と。

少しがっかりしたのは週刊誌のインタビューでジーコ自身が「腐ったミカンがいた」と答えた、というものだ。誰のことを指しているかはわからない。

でも、すごく寂しかった。

あのとき、僕らには腐る暇なんてなかった。オーストラリアに負けたとしてもクロアチアに勝てばグループリーグ突破の可能性はあった。ブラジル戦だって、厳しいハードルではあったけれど、まだ可能性が残っていた。

だから、チームが一丸となってその可能性にかけていた。

僕自身も同じだ。

「控え組」が強かった、「スタメン組」との紅白戦で勝っていたのに、出られないことに不満を持っていた──。そんな論評が出れば、それは強いチームでは当たり前のことだ、と答える。

試合に出られないことで満足する選手はいない。出るためのチャンスは練習しかない。だから、たとえスタメン組との紅白戦であっても手を抜くことはない。

むしろ、それはチームとしていい傾向だった。

あのチームは、誰ひとりとして手を抜くことのない素晴らしいチームだった。ジーコにも感謝しかない。もし、「戦術を決められない」ことが課題だったのだとすれば、それだってジーコひとりに責任を押しつけるものではないはずだ。

批判はメディアの仕事だから、時間とともにそういった報道が薄れていくことを願うしかできなかった。妻や子ども、母親が見ているかもしれない、と思うと心が痛んだ。

試合後のはち切れそうな胸の痛み。サッカーを通して経験したことのない感覚。楽しいだけではすまないサッカーを知った。

自分が入って負けた。この事実は生涯、変わることはない。日に日に増していく、その痛みは、僕の心を蝕(むしば)んだ。

(中略)

夏が終わり、秋に向かう。浦和は9月30日の第25節で京都サンガに5対1で勝利し、そこから一度も首位を譲ることなくリーグ初制覇を成し遂げた。

そして天皇杯。準決勝の鹿島戦で僕もゴールを決め、優勝を決めた2007年1月1日のガンバ大阪戦は先発して76分までプレーした。

満員の国立競技場で、赤と青──ひとつは相手、ガンバ大阪のサポーターの方たちだ──で埋まったスタジアムを見渡し笑顔がこぼれた。

「サッカー、辞めなくて良かった」

決してすべてが良くなったわけではない。でも、動けなくなるまでサッカーを続けよう、そう決心した。

TEXT=ゲーテ編集部

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