44歳、小野伸二が引退を決断。天才と呼ばれ、喝采を浴び続けた男の光と影。知られざる小野伸二を余すところなく書ききった初の自著『GIFTED』より、一部抜粋してお届けする。3回目は監督・岡田武史が見た小野伸二。 #1/#2
監督・岡田武史が認めるステディなメンタリティ
僕と伸二の関係は1998年が一番、濃いのかな。もちろん、そのあとも彼は日本のサッカー界をけん引していたから、その活躍を目にしていたし、実際に話をすることもあった。(中略)
選ぶことに迷いはなかった。
初めての代表監督だったから、とにかくいろんなシミュレーション──0対1でラスト10分だったらどう攻撃するか、とか、引き分けもいいから守り切るラスト10分とか──をしていたんだけれど、守備はある程度、やれる目途が立った。
ただ、シミュレーションのひとつで、攻撃の軸となる選手がケガをしたらどうするか、というものがクリアにならなかった。当時、核になっていた山口素(弘)、名波(浩)そしてヒデ(中田英寿)……特に、ヒデが出られなくなったときに、攻撃で代わりになる選手をどうするか、というところで「伸二の天才性にかけよう」と決めた。
そのくらい、伸二のボールタッチ、コントロール、相手の逆を突くプレー、ひらめきっていうのはすごかった。代表に選ぶ前から「すごいやつがいる」っていうのは聞いていたけれど、実際に見てもその通りだった。
だから繰り返すけれど選出に関しては全然、悩んでいない。
「未来のために若い選手を経験させるための選出」みたいなことも指摘されていたけれど、そんなことを考える余裕は、当時の僕にはなかったよ(笑)。
目の前の、あの大会で勝つためにはどうするか、しか考えていない。そこに伸二は必要だった、ということ。まあ、ご存じの通り、あのときはカズ(三浦知良)を外すかどうかが一番の議論の分かれ目だったから、伸二で悩む暇もなかったのかもしれない。
第3戦のジャマイカ戦に出したのも、勝つため。
ジャマイカ戦は絶対に勝たなきゃいけないって本当に思っていた。だけれど試合展開的に攻撃で打つ手がなかった。伸二の天才性にかけたわけだ。
第2戦も途中で出させようと思った、という話も聞いたけれど……確かにコーチが(伸二はどうだって)進言してきた気がする。ちょっとそこは覚えていない。
確かなことは、僕にとって伸二は勝つために必要な選手だった。それも特段、特別視しているわけでもなく、シミュレーションのなかに確実に入っていたということ。
とはいえ、ジャマイカ戦のファーストタッチで股抜き、あれは「いきなりそれをやるかね」とは思ったけれどね。
あのプレーが象徴しているけれど、伸二は、どんなときも変わらない。
大舞台だからがむしゃらにやる、ってこともないけれど、緊張して何もできない、ということもない。
ステディなメンタリティを持っていて、淡々となんでもできてしまう。あの試合も、硬さも感じなかったし、サラッとプレーしていたイメージがある。
みんなから好かれる小野伸二
人柄としては、本当にサッカー小僧で、誰にでも好かれるタイプ。でも、物怖じもしないよね。意外とずけずけと先輩に対しても言えるし。
数年前、急に「今治に顔を出してもいいですか」って連絡をくれて、実際に来た。そのときは「札幌でサッカースクールなどをやって、札幌にサッカーを広めたいんだ」って言っていた。
あれだけの実績がある選手が、そうやって考えるようになるのは、チームのなかで果たす役割として一歩先を行ったんだと思う。それだけの選手だから。
僕も彼を大好きだけれど、みんなも同じ思いなんだと思うな。
岡田武史/Takeshi Okada
1956年生まれ。大阪府出身。元サッカー選手。現在はFC今治運営会社「株式会社今治.夢スポーツ」代表取締役会長兼FC今治高校学園長。1998年フランスワールドカップ、2010年南アフリカワールドカップでも日本代表を率いた。クラブチームではコンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、中国の杭州緑城足球俱楽部の監督を歴任し、数々のタイトルを獲得。