公衆衛生の知見と現場の課題解決力を武器に、医療の持続性という難題に真正面から挑む。メディカルインテグレーター®として医療資材の供給、人材支援、経営コンサルティング事業などを展開し、仕組みから医療を支える変革者の新たな視座に今、注目が集まる。

セントラルメディエンス代表取締役。1984年広島県生まれ。東京医科大学在学中に、人材紹介会社を起業。海外留学ののちに、2018年にセントラルメディエンスを創業。医療のバックオフィス業務をメインに展開する傍ら、メディア、PR、不動産、病院などの法人を傘下に収める。病院の再生や地域医療をサポートするメディカルインテグレーター®のパイオニアとして成長を続ける。
コングロマリットを形成し、医療の新しい未来を創る
病院での長い待ち時間、煩雑な問診票、会計窓口の混雑──多くの人が一度は体験したことがある医療現場での“もたつき”。その背景には、診療、検査、資材調達、人材確保、財務といった業務が複雑かつ専門化し、病院にとっての全体最適が取りづらくなっているという現実がある。技術やサービスの断片が溢れる今、求められるのは、それらを横断的に統合し、有効な仕組みとして形にする存在だ。
かつてIT業界がシステムインテグレーターの登場によって飛躍的に効率・収益化されたように、医療界にもインテグレーター=サポート役が不可欠となっている。その実像をいち早く察知し、爆発的な行動力で体現しつつあるのが、セントラルメディエンスを率いる中川隆太郎氏だ。
「最近、病院の赤字や医療現場の疲弊といったニュースを目にすることが増えたと思います。弊社は、そうした課題に向き合いながら、生活インフラである病院が持続可能であるための仕組みを支える仕事をしています。煩雑なバックオフィス業務を下支えすることで、医療従事者の方々には、本来の仕事である医療に専念していただく。それによって、その病院そのものの在り方が、より鮮明になっていくと考えます。未来に続く医療を陰から支え、守っていきたい。そういう思いで、さまざまな事業に取り組んでいます」
医療を“外から支える”ため21歳で最初の起業を果たす
中川氏は、祖父と父がともに開業医という環境に育ち、自身も迷うことなく医学部へ進学。将来は医師として実家を継ぐものと、どこか当然のように考えていたという。しかし、周囲の同級生たちが「救急医療を志したい」「終末医療に携わりたい」と熱く語るなか、自分には明確な目標がないことに気づき、愕然とする。さらに、診療科によって報酬や業務負担に大きな差がある現行制度にも疑問を抱くように。そんな時に出合ったのが、公衆衛生という分野だった。
この学問では、疫学から環境衛生、保険政策や医療経済学までを幅広く学ぶことで、社会全体の健康を守り、高める実践的な方法を横断的に得ることができる。直接的な医療行為とは異なり、病院の“外側”から健康を支えるという視点に衝撃を受け、心を動かされたという
「他大学で開催された公衆衛生の勉強会に初めて出席した時、ODA(政府開発援助)をテーマにしたディスカッションが行われたんです。議題は“住民が千人の村に10億円の支援でどうやって健康度を上げるか”。僕はクリニックを建てることが最適と考えました。けれど議論を進めていくうちに、ただ箱ものを造っても、診療費や薬代が払えなければ意味がないし、続かないという話になって。最終的には、まずは産業を創出し、それを住民が回していく仕組みを整えようという結論にいたりました。健康度を上げるゴールが医療であったとしても、そこにいたるにはさまざまな課題があり、アプローチの道筋もひとつではない。仕組みを考え、つくることに面白さを感じたのが、公衆衛生を本格的に学びたいと思った最初のきっかけです」
ひと口に公衆衛生といっても、その間口は広い。中川氏が関心を寄せたのは、限られた医療資源をどう効率的に運用するかという、マネジメントや経済の視点を取り入れた分野だった。そして医学部在学中の21歳で、医局の医師と病院をマッチングさせるサービスを起業した。
「身近なところに目を向けると、医局から派遣される医師と病院との間に、かなりのミスマッチがあったんです。そこをうまく調整できれば、双方の負担が格段に軽減される。同時に人の流動性も高まり、生産性の向上にもつながる可能性を感じました。紹介料が介在することで一部の先生からはお叱りもいただきましたが、数年後に再会した際にはご理解もいただいていて。今ではいい笑い話です(笑)」
4年半の海外修業の後、理想を果たすべく再起業
会社は順調に成長し、中川氏は政府の有識者会議に呼ばれるまでになった。だが28歳の時に、敢えてその事業を譲渡。医業と公衆衛生の学問をより深く追究するため、海外のフィールドへと舵を切った。2013年から、オーストラリア、フィリピン、いったん日本滞在を挟みつつアメリカへ。計4年半ほどの修業で、研究に磨きをかけた。

世界の現場で遭遇した無数の問いと向き合いながら、“医療をどう支えるか”という自身のテーマは、少しずつ、しかし確実に輪郭を帯びていった。2018年の帰国直後に設立し、のちにセントラルメディエンスとして合併するふたつの会社では、アメリカの研究で手応えを感じた健康診断や産業保健のデータ活用が、後に展開することとなるサービスの要となっていく。
「会社で受ける健康診断のデータは基本的に会社が管理するのですが、数値を元に適切な判断を下す産業医のクオリティコントロールが、当時はあまり機能していなかったんです。例えば、健康診断の結果表にあるABCDE判定は、人間ドック学会の推奨値に基づき、病院や診断会社が独自に当てはめています。だから再検査などの判断が厳しいところもあればゆるいところもある。でも、オフィスワークと工場勤務では、そもそもの基準値がまったく異なるはず。だからまずは、業種ごとに基準を精査し、それを産業医にフィードバックするサービスを始めました。そして、その産業医と企業とをマッチングする仕組みを整えたことで、結果的に従業員の健康を支援する体制が生まれていったんです」
そうした産業医事業が軌道に乗った矢先、世界は新型コロナウイルス感染症という未曽有のパンデミックに直面する。中川氏はこの局面においても、的確な判断でいち早く対応に乗りだした。
「最初の相談は『中国で変な風邪が流行っているらしい。渡航している従業員を帰国させるべきか、産業医に判断してほしい』というものでした。調べたら欧州に検査キットがあるとわかり、それを取り寄せて、産業医を通じて企業に配布するかたちをとったのが始まりです。そこから急激にPCR検査のニーズが高まりましたが、検査の発注、検体の採取から受け取り、検査、結果報告までのフローがバラバラで、数もこなせない。もっと効率化できないかということで思いついたのが、移動式PCR検査車の活用でした。無医村などに出向いて健康診断や検査を行う車両をモデルに、PCRでも応用できないかと」
街で見かけるレントゲン車や献血車は、あくまで検体を集めるまでが目的で、検査までは行わない。中川氏が取り組んだのは、移動して検査を行う、前例のない発想だった。各所への働きかけを重ねながら、日本初の移動式PCR検査車を開発。2021年には東京五輪の開催支援にも携わり、全国各地でのPCR検査や大規模ワクチン接種会場運営も担った。中川氏の行動力は結果的に多くの現場を支え、社会全体への貢献へとつながった。


医療を止めない道はまだまだ先へ続く
医療の課題に対し、最適解を模索し、解決に導く。現在、創業8年目にして中川氏が手がける事業は、“医療を止めない”を主眼に、実に多岐にわたる。例えば、医療資材が不足すればデリバリー、人材が求められれば紹介、そして診療報酬の債権を買い取るといったファイナンスや病院清掃事業まで、医療のありとあらゆるバックオフィス業務を担うことで、病院や医師が目の前の患者に集中できる環境づくりに大きな貢献を果たしている。
加えて、健康の啓発や広報・PR業務といった集患支援までも担うというから驚きだ。現在、手がけていないのは手術器具の滅菌のみとなったが、それもじきに独自のサービスとして提供できる見込みだと語る。
ここまで達成すればだいぶ課題も改善されたのでは? との問いかけに、中川氏は穏やかにこう返す。
「今後は、それぞれの事業の精度をさらに上げていかなければと感じていますし、何よりも病院のDX化に寄り添うことで収益を上げ、未来につなげていくことが大事だと思っています。医療の持続性、永続性を担保するまでは、まだまだ道半ばです」
道半ば──そう言い切る謙虚さの奥に、次代の医療を支える確かなビジョンと大きな覚悟が息づいている。
TURNING POINT
21歳|医学部在学中に最初の起業
27歳|公衆衛生を学ぶ為、研究員として海外へ
33歳|産業医事業にフォーカスし、セントラルメディエンスを創業
35歳|移動式PCR検査車両事業を開始
40歳|海外展開を視野に事業を拡大
中川隆太郎の5つの信条
1.自信と過信は表裏一体。両方上手く操ってこそ
「高校までクルマのレースをやっていたこともあって、自分のなかで常に自信と過信がせめぎあってきた感があります。過信するには自信の裏づけが必要だし、自信は過信があったからこその結果。ともに表裏一体で持っていなくてはならないものだと思っています」
2.小さいルールを決めてそれを絶対に守ること
「何かをする時には、必ずルールをひとつ作るようにしています。例えばランニングの際には、電柱を2本過ぎたら1本休憩とか。絶対的なルールを決めることで、必ず目標を達成する感覚を得る。僕は本当に弱いので、そうやって自分を律することが必要なんです」
3.常に注視される意識でカッコよく生きる
「先輩から言われた『カッコよく生きろ』という言葉は、常に頭のなかにあります。自分の振る舞いが人に見られているという意識を持ち、身だしなみにも気をつけています。だらしない人についていきたいとは、誰も思わないですもんね」
4.人にできて自分にできないことはない
「これは単純に、人ができて自分ができないのであれば、それは己の努力が足りないだけだと。ですが、それはあくまで自分のなかでだけ思っていることで、人に言うつもりはありません。資格マニアなのも、人ができることを自分もやりたいと思うからなんです」
5.祖父から受け継いだ「初志貫徹」の重み
「祖父が亡くなる数日前に、紙に書いて渡されたのが『初志貫徹』という言葉です。祖父は研究者でしたが戦争で軍医として徴集され、戻ってきたら研究の場がなくなっていたそうです。祖父の思いがこめられているようで、ずっと財布に入れていた時期がありました」

問い合わせ
セントラルメディエンス https://centralmedience.com/