2010年W杯南アフリカ大会。世代交代を果たした日本代表は決勝トーナメント1回戦をパラグアイと戦い、PK戦の末に敗れた。悔しさに涙を流す若い選手を温かく迎えたのは出場機会が減ったベテラン日本代表選手だった。2006年大会ではできなかった、チームのための仕事を成し遂げた稲本潤一選手の姿もあった。日本代表OBが考える日本代表が継続すべき文化とは。
試合に出ていないけれど、このチームのために何かしたい
――2010年、稲本潤一選手ご自身にとって3回目となるW杯を迎えることになりました。
「2006年は、僕も含めて、試合に出る選手、出ない選手が一体感を持って、一致団結することができなかったという経験をしました。自分がやってしまったこと、モチベーションを保てなかったこと、それについての後悔ではないけれど、同じ過ちを犯したくないという気持ちはずっとありました。2010年ワールドカップへ立ち向かう代表活動でも試合に出たいという意欲で挑んでいましたが、もし試合に出られなくても、チームを支え、チームの雰囲気を下げずにやっていきたいと考えていました。2006年の失敗を活かさなければならないと」
――2010年W杯大会は直前のテストマッチで結果が出ず、開幕直前にスタメンを入れ代えて、戦い方にも変化が生まれました。
「(楢崎)正剛さんや(中村)俊輔がスタメンから外れてしまった。当然悔しかったと思います。僕自身も試合に出られない悔しさがありましたが、同時に2006年の想いも心にはあった。2006年は、ひとりの選手、ひとりの代表選手として、ありえない振る舞いをしてしまった。2010年は僕個人として、それを変える、そうならないようにしなくちゃいけないと思いました。(川口)能活さんや正剛さんや、俊輔とかベテランを始め、(中村)憲剛など中堅若手の試合に出られない選手も、チームのためにどう動くか、なにができるのかを考える人たちが多かったと感じています」
――初戦のカメルーン戦で勝利しました。
「初戦で勝てたことが大きかったと思います。岡田さんがギリギリのところで、多少やり方やポジションを変えても選手がついていき、結果が出た。2戦目のオランダ戦では敗れましたが、やっていることは間違っていなかったので、チームとしてはいい方向に向いていたと思います」
――試合に出ていたのは、川島永嗣、長谷部誠、長友佑都、本田圭佑、岡崎慎司など、その後に日本代表の中心選手となる若手たちでしたね。
「圭佑や長友、岡崎といった若い世代、勢いがある選手たちが出てきていたので、彼らを、チームを支えることが、チームの躍進になると、みんなが考えていたと思います。だからすごくいい方向に向かった。そういう一面と、大会前の結果が芳しくなかったことで、もっともっとひとつにならなければいけないという気持ちが強く芽生えました」
――そして、グループステージ最終戦のデンマーク戦は3-1と快勝しました。
「デンマーク戦はまさに一体感で勝てた試合でした。点が入ると、ピッチの選手全員がベンチに向かって、走ってきたり。試合に出ている人だけではなくて、全員で戦っている気持ちが一番感じられた試合だったかなと思います。もちろん、結果をもたらしたのは、試合に出ていた選手の力だけど、2006年を経験した人たちの経験が活きたと僕は思っています」
――稲本選手はカメルーン戦、デンマーク戦と途中出場しました。勝利で試合を終わらせるクローザー的役割でしたね。
「正直、プレッシャーはなかったですね。焦っているのは相手のほうだし、点を獲られる気がしなかったので。楽しかったですし、やっぱり試合に出る良さを再確認しました。ただなにより、勝って終わるチームに最後いられるというのは気持ちよかったですね」
――それでも、先発では出られない状況で苦しんだ選手もいたと思いますが、稲本選手はいかがでしたか?
「僕は帰りたいとは思わなかったですね。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でヤット(遠藤保仁)が2枚目のイエローカードをもらったので、出場停止になれば、準々決勝で試合に出られるチャンスがあるんじゃないかと思っていましたから(笑)」
――しかし、そのパラグアイ戦はPK戦で敗れました。
「もっとこのチームで上へ行きたかったという気持ちがとても強くありました。ベンチにいて、納得できるチームって、なかなかないんですよ。特に代表では。でも、1999年の準優勝したワールドユース(現U-20W杯)と2010年のワールドカップでのベンチは、すんごい楽しかった。どうやったら試合に勝てるか、どうやって士気を上げていくか。2010年南アフリカ大会ではそれを考え続けていられました。試合に出ていないのに、このチームのために何かしたいと強く思った。だから試合に勝てば、純粋に嬉しかった。ベンチにいて、そんなふうに思えた特別なチームであり、特別な大会でした」
もう代表は終わりだとスッキリできた
――2010年W杯大会以降、代表に選出されていません。パラグアイ戦後にスッキリしたような気持ちはありましたか?
「多少スッキリした部分もあったのかもしれませんね。もちろん南アフリカ大会が終わり、次も目指したいとも考えていたけれど、過去と同じようなモチベーションではなかったので、これで終わるんだという気持ちは多少ありましたし、実際終わりましたね」
――サッカーはチームスポーツであり、それはピッチに立つ11人だけではないと。
「1999年のワールドユースから、約10年経って、同じような経験でしたね。両方ともベンチでしたけど(笑)」
――そういう経験が今に至る稲本選手の長いキャリアを支えているように感じます。
「そうですね。これからのキャリアにおいても活きてくるように思います。チームは生き物だし、チームはどうしていくべきか、どういう人が必要だとか、うまいだけではダメだというのはすごく感じました。将来的に指導者も目指しているところがあるので、そういう意味でも3大会も経験できたというのは、すごくプラスだったと思います」
――さまざまな監督のもとでW杯3大会を戦いました。マネジメントという面での学びもあったと。
「全体を見渡せるマネジメントだったり、選手を納得させるマネジメントだったり、トルシエ監督や岡田さんのやり方をいろいろ経験できたのは面白かったと、今改めて思いますね」
――勢いがあり、我の強い若手だけでも勝てない。チームを支える人間も必要ということは、チームをマネジメントするうえでも重要になってくると。
「ベテランといわれる選手は絶対に必要だと思います。試合以外での貢献度というのも必要だから。そこは現場にいないとわからない部分だと思うので。重要なのはバランスだと思います。今回、2022年ワールドカップカタール大会のメンバーにも永嗣や長友が入っている。驚く声もありますが、僕は100%入ると思っていたので。そこは森保さんがわかっている部分だと思います」
代表の活躍は、日本にサッカー文化がより深く根づくきっかけになる
――2022年W杯カタール大会については?
「今の代表のほとんどの選手がヨーロッパでプレーしている。その環境のなかで日本がどれだけやれるのかを示すのは、今回がすごくいい機会なんだと思ってはいます」
――欧州組が増えていることで、日本サッカーのレベルが上がっていると見ますか?
「もちろんそれを感じる面もあります。ただ、どこのクラブに所属しているかということだけで、レベルについてはよくわからない状況だとも感じます。移籍ルールが変わったので、ヨーロッパに移籍しやすくなっていることも影響しています」
――2009年にJリーグの移籍ルールをそれまでの独自のローカルルールではなく、FIFAルールを採用する変更がありました。契約満了の選手は移籍金(違約金)なしでの移籍が可能になりました。それ以前は契約が満了しても一定の移籍金が必要だったので、日本人選手の欧州移籍の障壁が取り払われたことになりますね。
「2002年や2006年の日本人選手でもヨーロッパでプレーできる選手は多くいたと思うので。一概には比べられないなと思っています」
――とはいえ、ヨーロッパチャンピオンズリーグや欧州主要リーグで活躍する日本人選手の存在は、子どもたちに夢を与えている。
「そうですね。同時に日本代表の活躍もとても重要です。そうやってサッカー人気や、日本サッカーの文化がより深く日本に根づくきっかけになるので。代表がワールドカップベスト16へ行けば、サッカーが盛り上がると思うし、サッカー選手になりたいという子どもが増えてくるはず」
――日本代表はそういうものを背負っている。
「代表が抱えるもの、背負うものは大きいと思います。代表というのはそういうものであるということは間違いないので。不必要なプレッシャーを背負う必要はないけれど、代表に相応しい覚悟を持ってほしいですね」
――稲本選手自身も20代と30代とでは、W杯や代表に関しての意識に変化があったと感じます。
「はい。だからというか、若い選手はガンガンいっていいと思います。それがチームのためにいいことだと思うので。ある程度戦術やチームの約束事を守りながらやりつつ、若い選手は勢いのままいくことのほうが良い面も少なくありません。あとは永嗣や長友などのベテラン、後ろの選手がカバーしてくれると思います。森保監督を中心に日本サッカー協会としても、過去のワールドカップで、ベスト16に進出した経験や2006年ドイツ大会のことも糧として繋げたうえで、選ばれたメンバーだと思うので。怪我人が多いことやコンディション面で危惧されますが」
――今大会は代表選手にも若い選手が多い。代表チームも大きく世代交代した。2010年以来と言ってもいいと感じます。
「圭佑たちの世代が交代したので、今、20代前半の選手はこれからの代表を背負う選手です。このワールドカップでの経験を次世代に、僕たちがやってきたように繋いでいってほしいとは思います。『チームの一体感』を大事にすることもそのひとつだと思いますので、それを繋ぎながら代表強化、代表の文化していってほしいと思います」
3回目に続く。
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稲本潤一/Junichi Inamoto
1979年生まれ。小学生時代から注目を集め、中学進学と同時にガンバ大阪ジュニアユースに加入し、ユース時代にはトップチームでの出場を果たした。’95年にはU-17世界選手権にも出場し、’99年ワールドユース、2000年シドニー五輪と世界大会に出場。’02年、’06年、’10年のワールドカップメンバーでもある。’01年にはイングランドプレミアリーグアーセナルへ移籍。その後、イングランド、トルコ、ドイツ、フランスと渡り、’10年川崎フロンターレでJリーグ復帰。コンサドーレ札幌、SC相模原を経て、’22年から南葛SC所属。