18歳にして名門アーセナルの一員となった宮市亮は、度重なる大ケガを乗り越えて“過去最高の自分”を実現する決意を固めた。その胸中に迫る全4回の短期集中連載をまとめて紹介。※2023年1月掲載記事を再編
2. 自分を信じたドイツ代表10番ニャブリとの違い
3. 欧州での失われた10年。プレミアや日本代表でのプレー、大きな目標は捨てていた
4. 「もっと速く走れる」度重なる悲運の大ケガを乗り越えて目指す“過去最高の自分”とは
1. あの日、「これで終わりだ」と僕は思った
国内サッカー界における2022年の「マン・オブ・ザ・イヤー」と言えば、宮市亮もその一人である。
“この15年”を追いかけてきたサッカーファンなら、彼の名前を知らない人はいないだろう。1992年生まれ。愛知県出身。18歳にしてイングランド・プレミアリーグの強豪アーセナルに青田買いされた快速ドリブラーは、当時、日本サッカー界がついに輩出したワールドクラスのヤングスターとして特別なスポットライトを浴びた。
しかし、それから10年に及んだヨーロッパ戦歴の大部分を、宮市はリハビリに費やした。
2012年、2013年と立て続けに右足首靭帯を損傷。2015年には左膝、2017年には右膝の前十字靭帯を断裂。たった一度でさえ選手生命を丸ごと奪われかねない大ケガを4度も繰り返し、渡り歩くこと3ヵ国・6クラブ。アスリートにとって何より大切な“時間”は、「離脱」と「復帰」のニュースを繰り返しながら足早に過ぎ去っていった。
舞台を日本に移して2年目の今季、だからこそ、その鮮やかな復活劇に多くのファンが心を踊らせた。
“あの宮市”が、帰ってきた。
横浜F・マリノスの左ウイングとして示したパフォーマンスと結果は、日本代表・森保一監督の目に留まった。迎えた7月、E-1サッカー選手権2022(旧東アジア選手権)に臨む日本代表から約10年ぶりの招集レターが届いた。
期待感は最高潮に達した。香港戦はスタメン出場。中国戦は途中出場。迎えた韓国との第3戦、しかし彼は、またしてもピッチに倒れた。
「これで終わりだ」
痛みで歪む表情の内側で、あくまでドライにそう思った。本人だけじゃない。その瞬間を目撃したすべての人が、あまりにも悲運なストーリーに目を覆うしかなかった――。
あれから5ヵ月後の2022年12月。宮市に聞いた。
2. 自分を信じたドイツ代表10番ニャブリとの違い
フェイエノールトでの日々は、「最高に楽しい瞬間」の連続だった。
「ここなら絶対に通用する」
最初のトレーニングで手にした確信は、勢い任せの勘違いではなかった。フェイエノールトのマリオ・ベーン監督は18歳の日本人ウインガーを躊躇なくピッチに送り出し、まずは2011年2月6日のフィテッセ戦で初出場。1週間後のヘラクレス戦では、欧州主要リーグでの日本人最年少記録となるプロ初ゴールを記録した。
アジアとヨーロッパ、あるいは日本とオランダのサッカーの違いに戸惑うことはなかった。自分にとっての“武器”が何であるかを、宮市はオランダで再認識した。
「ベーン監督は、試合前日のミーティングで選手それぞれの基本的な動き方をホワイトボードに書くんです。しかも“矢印”だけで。ただ、左サイドに置かれている僕のマグネットには、いつも縦方向にバーンと長い矢印を書かれるだけでした」
ボールを持ったら、縦に仕掛けろ。
矢印が意味するベーン監督のメッセージは、つまり高校時代とまったく変わらないプレースタイルを宮市に求めた。だから、「めちゃくちゃやりやすかった」と振り返る。
サイド攻撃のカルチャーが根付くオランダは、宮市のようなウインガーの育て方をよく知っている。言葉も通じない環境で頭でっかちになることなく、メンタル的な解放感を得て溌剌とプレーさせてもらえたからこそ、宮市は存分に“らしさ”を発揮することができた。
「楽しくて楽しくて、ずっとサッカーに集中していました。寂しさは感じませんでした。英語はなかなか喋れなかったけど、頑張って伝えれば、なぜかコミュニケーションが取れてしまうあの感覚も楽しめていた。当時はまだクルマの免許を持ってなかったから一人だけ練習場まで自転車で通っていたんですけど、それもいい思い出です」
3. 欧州での失われた10年。プレミアや日本代表でのプレー、大きな目標は捨てていた
「頭の中がはっきりと整理されたのは本当につい最近のことで……それこそ、日本に帰ってきてからだと思います。ヨーロッパでは、本当にずっともがいていました。10年間、ずっと」
5年契約を結んだアーセナルに籍を置きながら、ボルトン、ウィガン、さらにオランダのトゥヴェンテへと期限付き移籍を繰り返した。しかし、その道のりに待っていたのはケガとの壮絶な戦いだった。
まずは2012年。ウィガンに加入して3ヵ月後のことだった。
「なかなか出場機会をもらえないことに焦っていたんだと思います。ここで結果を出さなければアーセナルに戻れないし、次の行き場もなくなってしまう。そんな危機感の中で、余計な力が入ってしまっていたのかもしれません」
練習中に痛めた右足首が普通のケガじゃないことはすぐにわかった。それでも、「ここで離脱したら終わり」と何も言わずにトレーニングを続けた。ごまかしながらでもプレーを続けて、少しでも早く結果を残したかった。しかしそのギリギリのラインを、足首の痛みはすぐに超えた。
「11月のリヴァプール戦でした。その試合が終わった瞬間に『もうダメだ』と。こんな痛みを我慢してプレーし続けることはできない。そう思いました」
4. 「もっと速く走れる」度重なる悲運の大ケガを乗り越えて目指す“過去最高の自分”とは
横浜F・マリノス加入2年目の2022シーズン、宮市の出場時間は次第に増えていった。
第22節サガン鳥栖戦までの記録はスタメン出場が「7」、途中出場が「8」で3得点を記録。サイドを主戦場とするウインガーのレギュラー争いで存在感を強め、“らしいプレー”が随所に見られるようになった。
手応えを感じつつあった中で、思いがけないサプライズにも遭遇した。森保一監督が発表したE-1サッカー選手権(旧・東アジア選手権)を戦う日本代表メンバーリストに、宮市の名前があったのである。
「呼ばれるなんてまったく思っていませんでした。完全にサポーターと同じ目線で日本代表のことを見ていたので、だからこそ嬉しかったし、興奮もしました」
香港との初戦で約10年ぶりに日本代表のピッチに立つと、続く中国戦と韓国戦では試合途中から送り出された。しかし、待ち構えていたのはまたしても悲劇だった。
「前十字靭帯をやってしまったことは、受傷した瞬間にわかりました」
しばらく意識の奥底に隠していた思いが、ふっと浮かんで脳裏をよぎった。
「次に大ケガをしたら引退しようという思いが心のどこかにあって、だからこそ、そうならないためにいろいろな取り組みをしてきました。やっぱり、一人のプロ選手としては、ケガが多すぎることに対する後ろめたさみたいなものがあったんです。ピッチに立てないプロなんて意味がないし、そうなってしまう自分にはプロであり続ける資格がないんじゃないかって」
今、目の前にいる宮市は、話しながら泣いている。