「やっと恩返しができる」──。2014年、監督就任の要請を受けた工藤公康の心にあったのは王貞治と福岡のファンへの強い感謝の想いだった。「君の思うようにやってくれ」という王会長の言葉を背に、ユーティリティプレーヤーの育成や下部組織との連携強化など「負けないチーム作り」を徹底。常勝軍団の伝統を守り、次世代へとつないだ工藤が語るホークスのレガシーとは。 #1 #2

王貞治から秋山幸二、そして工藤公康へ。次世代に繋ぐ常勝軍団の遺伝子
王貞治が不屈と熱量を注ぎ醸成していったダイエーは、1999年に初のリーグ優勝と日本一を成し遂げた。翌年にパ・リーグを連覇したチームは、2005年に福岡ソフトバンクホークスと球団名を変えても覇権を維持した。
偉大なる指導者のもとで二軍監督、ヘッドコーチを歴任した秋山幸二が、チームの遺伝子を受け継ぐ。2009年に王から次代を託された監督は、3度のリーグ優勝に2度の日本一と「常勝」としての誇りを守った。
2014年11月。工藤は、その秋山から「強いホークス」を引き継ぐこととなった。
監督就任会見で「恩返し」と言ったことを、工藤は今でも鮮明に覚えている。
「ダイエーにいたとき『こういう道もあるんだよ』と道を示してくれるとか、いろいろと相談に乗ってくれた王さん。そして、福岡で僕を支えてくれた、特に(ダイエーを去る時に残留を求める署名をした)17万6300人のファンのみなさんに『やっと恩返しができるんだ』という想いが強かったんです」
このとき球団会長となっていた王からは、チーム運営について「君の思うようにやってくれ」と、現役時代と変わらぬ信頼を寄せられる。そこで工藤が着手したのが、強きホークスを継承し、革新を果たすことだった。
「王さんから指導を受けた選手はいつか引退するし、秋山さんから教えてもらって主力になった選手だって世代交代の時期がやってくる。だから僕は、おふたりが築いた強いホークスを維持するため、自分で必要だと思っていたものを足していっただけなんです」
「負けづらいチーム」を作る
工藤が掲げる野球を簡潔に説明すれば「負ける要素を減らすこと」である。
打線と投手陣の強化はもちろん、工藤が重要視したのが守りだ。この強度と正確性を高めることこそが「負けづらいチーム」を作る。監督となった工藤がまず着手したのが、ユーティリティプレーヤーの育成だった。
内野と外野など複数のポジションを守れる選手がいることでベテラン選手をカバーできる。そして競争も円滑に進み、143試合もの長いシーズンを戦ううえで戦力の底上げとなる。
このシステムをチーム全体で共有させるため、工藤は扉を開いた。一軍だけではなく二軍や三軍の下部組織の選手たちにも可能性を示す。全カテゴリーを把握できる巡回コーチを置くことで、「このポジションが足りない」といった情報共有もしやすくなった。
「こうすることによって、チームの方針や指導法に統一感が出ます。『ホークスはこういうやり方だ』と提示することで、選手やコーチも足並みを揃えられるんです」
甲斐拓也、牧原大成、周東佑京。受け継がれていく「強いホークス」

工藤が構築したマネジメントによって花開いた選手に、牧原大成や周東佑京がいる。
ふたりは二軍までの試合にしか出場できない、育成選手としてのプロ入りだった。そこから複数でのポジションを守れるよう練習に励み、バッティングや盗塁といった個性も発揮する。そうして一軍の試合にも出場できる支配下契約を勝ち取り、今ではチームに欠かせない戦力へと成長を遂げた。
さらには工藤自身が現役時代、城島健司に帝王学を叩き込んだように、監督となっても有望視されるキャッチャーの甲斐拓也には「一番うるさく指導した」と対話を重ねる。強きホークスの遺伝子を注入していったのだ。
在任7年間でリーグ優勝3回、日本一5回。工藤は監督として「強いホークス」を守った。
はじまりは王だった。
常勝でいられるのは秋山、工藤と、地盤を築いた王の意志を後継者がつなぐからだ。それこそがホークスなのだと、工藤は誇る。
「ひとりでは組織を強くできません。先人の知恵や想いを受け継ぐ人たちがいるからこそ、レガシーや伝統が生まれるんです」
工藤公康/Kimiyasu Kudo
1963年愛知県生まれ。名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)を卒業後、西武ライオンズに入団。以降、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズなどに在籍。現役中に14度のリーグ優勝、11度の日本一に輝き、「優勝請負人」と呼ばれる。29年間マウンドに立ち続け、2011年正式に引退。2015年から福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。2021年に退任するまでの7年間で日本シリーズを5度制覇した。

