2026年5月24日。みずほPayPayドームで行われたソフトバンクと日本ハムの試合では、「OH SADAHARU LEGACY DAY(オウ・サダハル・レガシー・デー)」と題し、ホークスの選手、監督、コーチは王貞治会長の監督時代の背番号である「89」の特別ユニフォームを着用して試合に臨んだ。球場には球団の多くのOBたちも集結。そこには工藤公康の姿もあった。今回、工藤に選手・監督として見てきたホークス、そして王貞治について話を聞いた(全3回)。第1回は、常勝・西武から18年連続Bクラスのダイエーへ移籍した当時の衝撃と、チームの潮目が変わった伝説の“生卵事件”の裏側に迫る。

西武の黄金期を築いた工藤公康がダイエーで見たもの
工藤公康にとって、王貞治とは「雲の上の存在」だった。
「ジャイアンツの4番バッターで、『世界の王』でしたからね」
巨人での現役時代は9年連続日本一「V9」の中心選手。積み重ねた868本の通算ホームラン数は、今も破られぬ世界記録だ。
工藤が西武からフリーエージェント(FA)で福岡ダイエーホークスに移籍した1995年、チームの監督を務めていたのが王だった。
「頼むぞ」――工藤には、決して雄弁ではない王から信頼を置かれるだけの礎があった。
巨人時代は王の先輩でもあった西武の監督、廣岡達郎は「管理野球」と呼ばれるほど、選手にプロ意識を徹底させる指導者だった。
ブルペンでの1球、守備でのノックの1本、バッティングでの1スイング……すべてが試合に通ずるのだと説き、実戦でミスをすれば名指しで批判される。だからこそ西武は、廣岡から森祇晶へと監督が代わっても覇権を堅持できた。工藤が中心的存在として稼働した13年間で11度のパ・リーグ優勝、8度の日本一と、黄金期を築いたのである。
工藤が1995年に移籍した当初のダイエーは、西武とは真逆のチームだった。
バッティング練習では意図が見られず好きなように打つ。守備でミスをしても軽く受け流す。投手陣に至っては、早々に練習を切り上げて帰路に着いてしまう有り様だった。
18年連続Bクラスのダイエーを変えた“生卵事件”
「王さんは勝ちを経験していますが、『勝つためにはどうするべきか?』という意識が、チームに浸透していなかったのも事実です」
ダイエーは前身の南海時代を含め、1995年までリーグ順位4位以下の「Bクラス」が18年も続いていた。翌1996年。そんな「暗黒時代」を象徴する事件が起こった。
“生卵事件”である。
5月9日。物々しい空気は試合中から漂っていた。<王解雇><お前らそれでもプロか>。外野スタンドに抗議の横断幕が掲げられるなか、ダイエーは近鉄に敗れた。
試合後、憤慨した300人以上ものファンがダイエーのチームバスを取り囲む。罵声のみならず石や靴など、あらゆる物が投げつけられる。そこには50個もの生卵もあった。
騒動をじっと耐え、無言で球場をあとにした監督は、チームに訴えかけた。
「ああいう人たちこそ、本物のファンなんだ」
工藤はこのとき、ダイエーの潮目が大きく変わると肌で感じ取っていた。
「選手からすれば、野次だけならともかく、横断幕や物を投げつけて抗議する行為に腹が立つわけです。そのファンに対して、王さんは『本物だ』と言った。選手たちはその言葉を重く受け止めたと思います」

工藤とともに西武の黄金時代を生きた先輩の秋山幸二のほか、小久保裕紀や城島健司といった、ダイエーの未来が奮い立つ。最下位だったこの年から5位、3位と一歩ずつ駆け上がり、そして1999年、ダイエーとなって初のリーグ優勝と日本一を遂げたのである。
優勝請負人・工藤公康を支えた“本物”のファンたちの想い
11勝を挙げリーグMVP。「優勝請負人」と称された工藤は、この年限りでダイエーを去った。球団との交渉が難航し苦渋の決断だったが、王はこう送り出してくれた。
「監督としては残ってほしいが、工藤の野球人生を考えたらほかの球団でいろいろ勉強するのもひとつの方法だよ」
そして、工藤の退団を“本物”たちも惜しむ。「ダイエーに残ってほしい」と、多くのファンが署名で引き留めようとしてくれたのだ。
「この人たちに『いつか恩返しをしなければいけない』と思わせてくれました」
17万6300人。工藤は10年もの歳月をかけ、はがきを通じてその声に感謝を伝えた。
工藤公康/Kimiyasu Kudo
1963年愛知県生まれ。名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)を卒業後、西武ライオンズに入団。以降、福岡ダイエーホークス、読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズなどに在籍。現役中に14度のリーグ優勝、11度の日本一に輝き、「優勝請負人」と呼ばれる。29年間マウンドに立ち続け、2011年正式に引退。2015年から福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。2021年に退任するまでの7年間で日本シリーズを5度制覇した。

