日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、越前国を治めることになった柴田勝家に織田信長が送った九ヵ条の掟書についてのエピソードを紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
織田信長が天下統一のために各国の将軍に求めたこと
所領安堵つまり、主君が家臣の土地の所有権を認めることが封建時代の主従関係の基礎だった。家臣が主君に従って戦をした理由もそこにある。支配領域を広げるために、彼らは戦ったのだ。天下静謐を目指した信長にとっても、その事情は基本的には変わらない。都を制圧して天下人となり、版図を全国に広げていく過程で、信長は新たに支配した土地を重臣たちに分け与えていく。重臣はそれぞれの地域で一国一城の主となり、信長はその上に君臨した。
そういう意味で、信長といえども、封建制の枠組みから完全に自由なわけではなかった。土地という恩賞なしに、増加していく家臣団を自らの支配下に置くことはできなかったのだ。
とはいえ、信長は彼らに完全な自治を許したわけではない。
天正三年、越前の一向一揆を制圧した信長は、柴田勝家に越前国の八郡を与える。石高49万石。勝家は堂々たる戦国大名となったわけだが、同時に信長は勝家に宛てて九ヵ条の掟書(掟条々)を送っている。越前国を治めるにあたり、こうしなさいよと掟を定めたのだ。
支配は認めるが、勝手は許さないというわけだ。現代の基準で大雑把に分類すれば、信長はマイクロマネジメント型の君主だったと言えるかもしれない。
もっともその掟書を子細に読むと、信長の真意はそれほど単純ではなかったことがわかる。少なくとも、勝家をロボットのように我が意のままに操ろうとしたわけではない。
まず第一に、掟の内容はごく穏当なものだった。掟条々に定められたのは、民に不法な税を課すなとか、地侍を丁寧に扱えとか、裁判は公正に行えとか、関所を廃止せよとか、備蓄を怠るなとか、国主として守るべき当然の事柄ばかりだった。「よく治めよ」と一言励ませばすむところを事細かに指示してしまうのは、信長の癖のようなものだろう。そんな当然のことを指示されて、勝家がどう思ったかは伝わっていない。
けれど、信長にも言い分はあったに違いない。その当たり前が出来なかったから、天下は乱れたのだ。為政者が私利私欲を貪り、民を蔑ろにした結果がこの乱世なのだ。信長の天下静謐は、この掟書通りの統治が国の隅々にまで行き渡った時に成就する。信長はおそらくそう考えていた。その証拠に、信長の家臣たちの為政者としての評判は悪くない。猛将のイメージの強い勝家も、領民に慕われていたという話が残っている。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
■第一回・偉大な父・織田信秀とは
■第二回・斎藤道三を唸らせた、信長の一言とは
■第三回・江戸の裁判でみせた、信長の男気とは
■第四回・若き織田信長が、家臣たちの信頼を得られなかった理由とは
■第五回・武田信玄が語る信長の機転の効いた行動とは
■第六回・織田信長が桶狭間の戦いで起こした大事件とは
■第七回・桶狭間の戦いは奇襲戦ではなかった!? 誰よりも慎重な武将・織田信長
■第八回・日本で唯一、はじめから天下統一を画策していた武将・織田信長の思慮深さとは
■第九回・織田信長が足利幕府を再興させた本当の狙いとは
■第十回・殺してしまえホトトギスは嘘⁉︎ 信長は実は冷静沈着な武将だった?
■第十一回・織田信長は世界初のダイバーシティ推進者だった!?
■第十二回・織田信長が味方の裏切りを頑なに信じなかった驚きの理由とは
■第十三回・織田信長が見据え、目指していた戦国時代後の未来
■第十四回・織田信長が豊臣秀吉の妻・寧々に送った手紙の驚きの内容とは
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。