日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、織田信長が戦乱の世を平和に導くために貫いた信念についてのエピソードを紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
日本の平和を目指すため、信長が貫いた信念
天下静謐、つまり天下の秩序回復が信長の構想だった。義昭を奉じて上洛し、将軍の権威を復活させたのもそのためだ。
都の平和こそが、天下静謐の鍵なのだ。信長が戻らなければ都は瞬時に諸勢力の争奪の場に戻るだろう。長政に退路を断たれた時、信長がまず考えたのはそのことだったはずだ。だから都へと一目散に駆けた。信長は自身の健在な姿を、都の人々に見せる必要があったのだ。
彼はもちろん現代的意味での平和主義者ではない。信長の生きた時代、権力は武力とほぼ同義語だ。秩序維持には、剥き出しの武力が不可欠だった。だから苛烈に武力を行使した。けれど、野放図に戦をしたわけではない。世の乱れの原因は将軍という権威が権力を失ったことにある。信長は武力で形骸化した将軍権威を再生した。その権威に服することを、人々に求めたのだ。朝倉攻めも、上洛せよという将軍の意向に朝倉義景が従わなかったのが理由だった。
もっとも、上洛の呼びかけをしたのは信長だ。将軍権威を復活させると言えば聞こえはいいが、実態は信長の傀儡と見なされても仕方がない。義景をはじめ、信長に反感を持つ人々は誰しもがそう考えていたはずだ。
将軍となった当初、義昭は自らの境遇の大きな変化に心を奪われ、それを不服と思わなかったのだろう。信長がいなければ将軍位など絵に描いた餅でしかない。けれど時が経ち、地位に馴れると満足できなくなる。義昭は信長に無断で諸大名に御内書を送り、あれこれと命じるようになる。信長はこれを許さなかった。御内書には信長の副状をつけること、さらにそれ以前の義昭の命令はすべて無効とすることを約束させる。
将軍の面目は丸潰れだが、軍事力を持たない義昭は呑むしかなかった。そして将軍でありながら信長に対して面従腹背を続けた。その結果生じたのが、この時期の信長の苦境だ。信長の敵対勢力、上洛時に追い払われた六角氏に三好党、本願寺など宗教勢力、朝倉や武田など有力大名を巻きこみ、信長包囲網が形成される。信長は四方の敵と戦わなければならなくなった。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
■第一回・偉大な父・織田信秀とは
■第二回・斎藤道三を唸らせた、信長の一言とは
■第三回・江戸の裁判でみせた、信長の男気とは
■第四回・若き織田信長が、家臣たちの信頼を得られなかった理由とは
■第五回・武田信玄が語る信長の機転の効いた行動とは
■第六回・織田信長が桶狭間の戦いで起こした大事件とは
■第七回・桶狭間の戦いは奇襲戦ではなかった!? 誰よりも慎重な武将・織田信長
■第八回・日本で唯一、はじめから天下統一を画策していた武将・織田信長の思慮深さとは
■第九回・織田信長が足利幕府を再興させた本当の狙いとは
■第十回・殺してしまえホトトギスは嘘⁉︎ 信長は実は冷静沈着な武将だった?
■第十一回・織田信長は世界初のダイバーシティ推進者だった!?
■第十二回・織田信長が味方の裏切りを頑なに信じなかった驚きの理由とは
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。