織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「御行衛おぼしめす儘にあらず」
天下静謐、つまり天下の秩序回復が信長の構想だった。義昭を奉じて上洛し、将軍の権威を復活させたのもそのためだ。
都の平和こそが、天下静謐の鍵なのだ。信長が戻らなければ都は瞬時に諸勢力の争奪の場に戻るだろう。長政に退路を断たれた時、信長がまず考えたのはそのことだったはずだ。だから都へと一目散に駆けた。信長は自身の健在な姿を、都の人々に見せる必要があったのだ。
彼はもちろん現代的意味での平和主義者ではない。信長の生きた時代、権力は武力とほぼ同義語だ。秩序維持には、剥き出しの武力が不可欠だった。だから苛烈に武力を行使した。けれど、野放図に戦をしたわけではない。世の乱れの原因は将軍という権威が権力を失ったことにある。信長は武力で形骸化した将軍権威を再生した。その権威に服することを、人々に求めたのだ。朝倉攻めも、上洛せよという将軍の意向に朝倉義景が従わなかったのが理由だった。
もっとも、上洛の呼びかけをしたのは信長だ。将軍権威を復活させると言えば聞こえはいいが、実態は信長の傀儡と見なされても仕方がない。義景をはじめ、信長に反感を持つ人々は誰しもがそう考えていたはずだ。
将軍となった当初、義昭は自らの境遇の大きな変化に心を奪われ、それを不服と思わなかったのだろう。信長がいなければ将軍位など絵に描いた餅でしかない。けれど時が経ち、地位に馴れると満足できなくなる。義昭は信長に無断で諸大名に御内書を送り、あれこれと命じるようになる。信長はこれを許さなかった。御内書には信長の副状をつけること、さらにそれ以前の義昭の命令はすべて無効とすることを約束させる。
将軍の面目は丸潰れだが、軍事力を持たない義昭は呑むしかなかった。そして将軍でありながら信長に対して面従腹背を続けた。その結果生じたのが、この時期の信長の苦境だ。信長の敵対勢力、上洛時に追い払われた六角氏に三好党、本願寺など宗教勢力、朝倉や武田など有力大名を巻きこみ、信長包囲網が形成される。信長は四方の敵と戦わなければならなくなった。
信長の軍事力と政治力がその権威の後ろ盾であることを考えれば、信長は自分の落とした影と戦うことになったと言ってもいい。将軍の権威を高めればそれだけ、義昭が敵を引き寄せる求心力も強大になるのだ。
義昭が表立って敵対するのは元亀四年四月のことだ。信長は軍勢を率いて二条の将軍御所を囲み上京一帯を焼く。圧力をかけて和睦するためだ。和睦は一旦成立するが、七月に入ると義昭が再び挙兵したため、信長はこれを徹底的に撃破する。それでも信長は最後まで、義昭の命だけは取らなかった。秀吉を警護につけ、義昭に味方する河内の城へ送り届けさせている。
「天命をそろしく、御行衛おぼしめす儘にあらず」※
つまり義昭殺しは天命への違背であり、今後の成り行きにも差し障る。だから命を助けて追放し、評価は後世の人にまかせようと信長は考えた、と『信長公記』は記している。
信長の考えを直接聞いたわけではないだろう。信長が天命なるものを信じたかどうかはわからない。重要なのは、今後の成り行きに障害がある、という部分だ。天下静謐という目的のために、信長は将軍の権威を利用した。その権威を、自らの手で滅ぼすことを信長は恐れた。それは自らが世に示した規範を破壊することに他ならないのだ。
信長は武力による統治の次に来る時代を見据えていた。戦乱を完全に終息させるには、人々の認める権威が必要だった。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)141ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」