日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、織田信長が誰よりも慎重な武将だったことがわかる桶狭間の戦いでのエピソードを紹介。作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
僅かな勝機に全力を尽くした信長
前回、信長が今川義元を討ち取ったのは僥倖(ぎょうこう)に過ぎなかったと書いた。異論はあるだろう。
「信長は敵本陣の位置を知った上で軍勢を動かし、義元を襲った。桶狭間の勝利は、周到に計画された奇襲によるものだ」というのが従来の定説だからだ。
私はこの説を採らない。理由は無数にあるけれど、ここではふたつだけ書く。第一は『信長公記』だ。信長の弓衆だった太田牛一の書いたこの書物には、桶狭間が奇襲戦だったことを示唆する記述がいっさい存在しない。それどころか、今川軍に肉迫しようと焦る信長を、馬にとりすがり制止する家老衆の姿が描かれている。「この先の隘路(あいろ)を行けば、こちらが小勢であることが敵から丸見えになる」からだ。信長は諫言(かんげん)を聞き入れず突き進む。自軍の姿を敵の目から隠そうなどとは微塵も考えていない。つまり奇襲ではないのだ。信長は正面から今川軍を攻撃しようとしていた。
自棄(やけ)になったわけではない。勝算はあった。その日早朝、織田方の鷲津砦と丸根砦が今川軍の手で陥落していたのだ。砦が攻撃を受けるであろうという報告が前夜に届き軍議が開かれたが、信長は世間話ばかりしていた。「運の末には知恵の鏡も曇る」と家来たちは嘆くのだが、信長が軍議を世間話で濁したのは、援軍を送るつもりがなかったからだ。その証拠に、未明になって砦への攻撃が始まったと報告を受けると信長は即座に出陣する。清洲城から熱田までの12キロを一気に駆け、東を見ると煙が上がっていた。鷲津と丸根の両砦が落ちたのだ。信長の予想通りだったはずだ。というよりも、それを待っていたのだ。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
■第一回・偉大な父・織田信秀とは
■第二回・斎藤道三を唸らせた、信長の一言とは
■第三回・江戸の裁判でみせた、信長の男気とは
■第四回・若き織田信長が、家臣たちの信頼を得られなかった理由とは
■第五回・武田信玄が語る信長の機転の効いた行動とは
■第六回・織田信長が桶狭間の戦いで起こした大事件とは
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。