織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「あの武者、宵に兵粮つかいて、夜もすがら来たり」
前回、信長が今川義元を討ち取ったのは僥倖(ぎょうこう)に過ぎなかったと書いた。異論はあるだろう。
「信長は敵本陣の位置を知った上で軍勢を動かし、義元を襲った。桶狭間の勝利は、周到に計画された奇襲によるものだ」というのが従来の定説だからだ。
私はこの説を採らない。理由は無数にあるけれど、ここではふたつだけ書く。第一は『信長公記』だ。信長の弓衆だった太田牛一の書いたこの書物には、桶狭間が奇襲戦だったことを示唆する記述がいっさい存在しない。それどころか、今川軍に肉迫しようと焦る信長を、馬にとりすがり制止する家老衆の姿が描かれている。「この先の隘路(あいろ)を行けば、こちらが小勢であることが敵から丸見えになる」からだ。信長は諫言(かんげん)を聞き入れず突き進む。自軍の姿を敵の目から隠そうなどとは微塵も考えていない。つまり奇襲ではないのだ。信長は正面から今川軍を攻撃しようとしていた。
自棄(やけ)になったわけではない。勝算はあった。その日早朝、織田方の鷲津砦と丸根砦が今川軍の手で陥落していたのだ。砦が攻撃を受けるであろうという報告が前夜に届き軍議が開かれたが、信長は世間話ばかりしていた。「運の末には知恵の鏡も曇る」と家来たちは嘆くのだが、信長が軍議を世間話で濁したのは、援軍を送るつもりがなかったからだ。その証拠に、未明になって砦への攻撃が始まったと報告を受けると信長は即座に出陣する。清洲城から熱田までの12キロを一気に駆け、東を見ると煙が上がっていた。鷲津と丸根の両砦が落ちたのだ。信長の予想通りだったはずだ。というよりも、それを待っていたのだ。
砦の陥落を見届けると、信長は駆けに駆けて、今川軍の正面に達する。そこで家老衆の制止を振り切ってさらに進もうとする。その時の信長の言葉を牛一はこう記している。
「各々よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮(ひょうろう)つかいて、夜もすがら来たり。大高へ兵粮を入れ、鷲津丸根にて手を砕き、辛労して、疲れたる武者なり。こなたは新手なり。小軍にして大敵を恐るるなかれ。運は天にあり。この語を知らざるや」
敵は前日夕方糧食を摂っただけで夜通し行軍し、大高城に兵糧を入れ、鷲津と丸根の二つの砦への攻撃で疲弊している。こちらは新手だ。「味方が少数でも大軍を恐れるな。運は天にある」という言葉を知らないか。
信長はそう言って配下の諸将を励ます。それはすなわち、鷲津砦と丸根砦を犠牲にして敵軍を疲弊させることが、この時点での彼のほとんど唯一の「勝算」であったことを意味する。その勝算には、もちろん義元の首を取るなどという大勝は含まれていない。疲弊した敵を緒戦で叩き、織田が手強いという印象を与え、戦線を膠着させて、あわよくば今川軍を撤退させる。戦局不利と見れば、少なくとも義元を含む主軍は引く可能性が高いからだ。彼我の兵力差を考えれば、そのくらいが信長の望める最大の戦果だった。
しかも実際には、敵は疲弊していなかった。鷲津と丸根を攻めた先鋒の松平元康(後の徳川家康)も朝比奈泰朝も、後方で兵を休めていた。信長は敵の動きを見誤ったのだ。それでも勝てたのは、突然の暴風雨と、先陣の後方に義元の本陣があったという奇跡が重なったからだ。
桶狭間が奇襲ではなかったと考える第二の理由は、信長の性格そのものにある。実は彼は奇襲で一発逆転を狙うなどという無謀な企てをするタイプの人物ではなかった。翌年始まる7年間にわたった美濃攻めが、その事実を雄弁に物語っている。彼はむしろ慎重な人だった。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)56ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」