日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、武田信玄が語る信長についてのエピソードを紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
武田信玄が語る、織田信長のひととなり
信長がいくつもの血生臭い闘争の末に、尾張全域をなんとかその支配下に置いたのは25歳の頃。血生臭いのは、それが血縁や仲間の血だったからだ。
当時の日本は、実質的には無政府状態だ。足利将軍は京都でかろうじて命脈を保ち、その権威は地方にも届いてはいた。尾張にも守護職斯波氏の家系が残り、一応の尊崇を受けてはいたが、権威のみの存在で、現実的な権力は持たなかった。
この時代の権力とは、すなわち兵力だ。行政権も司法権も立法権も、すべて具体的な軍事力を背景に行使された。尾張国内の十数の城には城主がいて、それぞれに権力を行使していた。
一時期はその大半が、信長に敵対していた。しかもその城主の多くが、縁者や父信秀の有力な家臣だった人々だ。叔父や従兄弟、少年時代の遊び仲間、味方だったはずの家来衆、さらに兄弟さえも敵として、信長は戦わなければならなかった。
理由はひとつ。信長の兵力不足だ。信秀という重石が外れれば、信長は尾張に割拠する弱小勢力のひとつでしかなかった。
僅かに有利だったのは、隣国美濃の斎藤道三が信長の庇護者となったこと。信長が城の全軍を率いて出陣しなければならなくなった時は、と言っても800人ほどの軍勢だが、空になった城を守備する援軍を送ってくれたりもした。けれどその道三も息子の義龍に討たれ、信長は美濃とも敵対関係となる。八方塞がりの状態で、信長はわずかの手勢を率い、親類縁者と泥沼の戦を続けたのだ。
後年の信長を知る我々は、それを天下人の人生の前哨戦と見てしまいがちだ。けれど、信長の生が最も充溢していたのはこの時期だったはずだ。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
■第一回【朗読・5分で学べる織田信長 】 偉大な父・織田信秀とは
■第二回【朗読・5分で学べる織田信長 】斎藤道三を唸らせた、信長の一言とは
■第三回【朗読・5分で学べる織田信長 】江戸の裁判でみせた、信長の男気とは
■第四回 若き織田信長が、家臣たちの信頼を得られなかった理由とは【朗読・5分で学ぶ】
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。