織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かたりをこすよの」
信長がいくつもの血生臭い闘争の末に、尾張全域をなんとかその支配下に置いたのは25歳の頃。血生臭いのは、それが血縁や仲間の血だったからだ。
当時の日本は、実質的には無政府状態だ。足利将軍は京都でかろうじて命脈を保ち、その権威は地方にも届いてはいた。尾張にも守護職斯波氏の家系が残り、一応の尊崇を受けてはいたが、権威のみの存在で、現実的な権力は持たなかった。
この時代の権力とは、すなわち兵力だ。行政権も司法権も立法権も、すべて具体的な軍事力を背景に行使された。尾張国内の十数の城には城主がいて、それぞれに権力を行使していた。
一時期はその大半が、信長に敵対していた。しかもその城主の多くが、縁者や父信秀の有力な家臣だった人々だ。叔父や従兄弟、少年時代の遊び仲間、味方だったはずの家来衆、さらに兄弟さえも敵として、信長は戦わなければならなかった。
理由はひとつ。信長の兵力不足だ。信秀という重石が外れれば、信長は尾張に割拠する弱小勢力のひとつでしかなかった。
僅かに有利だったのは、隣国美濃の斎藤道三が信長の庇護者となったこと。信長が城の全軍を率いて出陣しなければならなくなった時は、と言っても800人ほどの軍勢だが、空になった城を守備する援軍を送ってくれたりもした。けれどその道三も息子の義龍に討たれ、信長は美濃とも敵対関係となる。八方塞がりの状態で、信長はわずかの手勢を率い、親類縁者と泥沼の戦を続けたのだ。
後年の信長を知る我々は、それを天下人の人生の前哨戦と見てしまいがちだ。けれど、信長の生が最も充溢していたのはこの時期だったはずだ。
信長が尾張一円を支配下に置いた頃、旅の僧侶が武田信玄と面談した。僧侶の寺が信長の居城のある清洲にほど近いことを知ると、信玄は目の色を変えて信長の人物像を訊ねる。
信長が毎朝馬に乗り、鉄砲や弓の稽古をし、常に兵法を学んでいること。頻繁に鷹狩りに出かけること、その鷹狩りの方法が独特であること……。信玄に問われるままに僧侶は語る。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」
幸若舞のこの一番だけを、信長は謡いながら舞う。また小唄を愛謡すると僧侶が話すと、信玄は信長の真似を懇願する。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ。一定かたりをこすよの」※
信長の人となりを、声の調子から少しでも推し量ろうとしたのだろう。残念ながら我々はそれを聞けないが、信長の心境はわかる気がする。彼も死を恐れたのだ。恐れたからこそ、死を正面に見据え、目的の完遂に集中しようとしたのだ。
この時期の信長は前線で戦った。自らの手で敵の首を落とし、川の対岸に味方を退却させるため、最も危険な最後尾の部隊を指揮したりもした。少数の軍勢で勝ち抜くことができたのは、将たる信長が自らの命を危険に晒し続けた結果でもあったのだ。
何よりもそれが劣勢の味方の士気を鼓舞する唯一の方法だったから。彼の工夫した新戦法もさることながら、この信長の徹底した行動こそが、弱いという定評のあった尾張兵を強靱で集中力の高い軍隊に変えた。激しく戦った敵のなかにも、例えば柴田勝家のように、やがて信長に心服する人々が現れる。
こうして信長は着々と軍事力を拡大する。とは言え、今川義元が尾張に侵攻した時、信長が動員できたのは2000人の兵力に過ぎなかったのだが。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)51ページより引用
訳:死はひとのさだめ、生きたあかしに何をしよう。きっと人はそのことを語るだろう
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。