日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、宣教師のルイス・フロイスが語る織田信長の懐の深さにまつわるエピソードをご紹介。 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
宣教師が伝える等身大の信長像
外国人の書いた日本旅行記は面白い。同時代の日本人ならまず書き残さない些細な事柄まで克明に記録しているからだ。ルイス・フロイスの『日本史』を読むと、戦国の世を旅しているような錯覚に囚われる。
ポルトガルの首都リスボンに生まれたフロイスがイエズス会に入会し、ゴアに渡ったのは1548年16歳の時だった。その21年後、フロイスは京都で信長に謁見することになる。信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年のことだ。場所は建設中の二条城。つまり前回述べた、義昭の居城とするため信長がお祭り騒ぎで自ら指揮を執っていた、まさにあの建設現場だ。
信長は濠に架けた橋の上でフロイスを出迎える。せっかちな信長は、屋敷より道端で人に会うのを好んだという。この日も橋の上に座ってフロイスを引見した。信長は粗末な衣服を身につけ、いつでもその場に座れるよう腰に虎の皮を巻いていたとフロイスは記している。
多い時で2万5千人がそこで働いていた。大変な喧噪だったに違いない。信長がそんな格好なものだから、手伝いに集められた近隣諸国の大名や武将たちも皮衣などの簡素な身なりで立ち働いていたこと。見物する者は男も女も、草履を脱がずに自由に信長の前を通り過ぎるのを許されたこと。また市内の寺院は鐘を撞くことを禁じられ、この二条城で撞かれる唯一の鐘の音を合図に人々が作業に従事していたことなどが、フロイスの記述から知れる。庶民に工事の見物を許したのは、おそらく信長だろう。自分の前を通る時にいちいち履物を脱がなくていいというのも、いかにも信長らしい。フロイスは別の箇所で、信長が卑賤な身分の者、軽蔑されていた者とも、ごく打ち解けて話をしたと述べている。
信長はフロイスに日射しが強いから帽子をかぶるように促すと、司祭を質問攻めにする。何歳か(フロイスは37歳で信長の2歳年長だった)。来日して何年か。ポルトガルの親類はあなたに会いたがっているか。旅程はどのくらいか。神の教えが日本にひろまらない場合はインドに帰るつもりか……。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
■第一回・偉大な父・織田信秀とは
■第二回・斎藤道三を唸らせた、信長の一言とは
■第三回・江戸の裁判でみせた、信長の男気とは
■第四回・若き織田信長が、家臣たちの信頼を得られなかった理由とは
■第五回・武田信玄が語る信長の機転の効いた行動とは
■第六回・織田信長が桶狭間の戦いで起こした大事件とは
■第七回・桶狭間の戦いは奇襲戦ではなかった!? 誰よりも慎重な武将・織田信長
■第八回・日本で唯一、はじめから天下統一を画策していた武将・織田信長の思慮深さとは
■第九回・織田信長が足利幕府を再興させた本当の狙いとは
■第十回・殺してしまえホトトギスは嘘⁉︎ 信長は実は冷静沈着な武将だった?
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。