織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「予は甚だこれがほしくはあるが、それを動かせておくことはむずかしく」
外国人の書いた日本旅行記は面白い。同時代の日本人ならまず書き残さない些細な事柄まで克明に記録しているからだ。ルイス・フロイスの『日本史』を読むと、戦国の世を旅しているような錯覚に囚われる。
ポルトガルの首都リスボンに生まれたフロイスがイエズス会に入会し、ゴアに渡ったのは1548年16歳の時だった。その21年後、フロイスは京都で信長に謁見することになる。信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年のことだ。場所は建設中の二条城。つまり前回述べた、義昭の居城とするため信長がお祭り騒ぎで自ら指揮を執っていた、まさにあの建設現場だ。
信長は濠に架けた橋の上でフロイスを出迎える。せっかちな信長は、屋敷より道端で人に会うのを好んだという。この日も橋の上に座ってフロイスを引見した。信長は粗末な衣服を身につけ、いつでもその場に座れるよう腰に虎の皮を巻いていたとフロイスは記している。
多い時で2万5千人がそこで働いていた。大変な喧噪だったに違いない。信長がそんな格好なものだから、手伝いに集められた近隣諸国の大名や武将たちも皮衣などの簡素な身なりで立ち働いていたこと。見物する者は男も女も、草履を脱がずに自由に信長の前を通り過ぎるのを許されたこと。また市内の寺院は鐘を撞くことを禁じられ、この二条城で撞かれる唯一の鐘の音を合図に人々が作業に従事していたことなどが、フロイスの記述から知れる。庶民に工事の見物を許したのは、おそらく信長だろう。自分の前を通る時にいちいち履物を脱がなくていいというのも、いかにも信長らしい。フロイスは別の箇所で、信長が卑賤な身分の者、軽蔑されていた者とも、ごく打ち解けて話をしたと述べている。
信長はフロイスに日射しが強いから帽子をかぶるように促すと、司祭を質問攻めにする。何歳か(フロイスは37歳で信長の2歳年長だった)。来日して何年か。ポルトガルの親類はあなたに会いたがっているか。旅程はどのくらいか。神の教えが日本にひろまらない場合はインドに帰るつもりか……。
会見は2時間に及ぶ。その最中に、信長が遠巻きに見守る群衆のなかの僧侶を指さし、「彼らは庶民を誑かす詐欺師だ。自分は何度も彼らを皆殺しにしようと思ったのだが、可哀想だから放っておくのだ」と大声で叫ぶという、後の比叡山焼き討ちを連想させる場面がある。信長が仏教勢力に手を焼いたのは周知だが、フロイスの筆の力で信長と僧侶たちとの日頃の緊張関係が生々しく伝えられる。
信長はフロイスのことが気に入ったらしい。キリスト教の布教を許可しただけでなく、その後も幾度となく面会を許している。フロイスは岐阜城にも安土城にも招かれ、そのたびに信長の歓待を受ける。会見は二時間三時間と長びき、フロイスが暇乞いをすると、信長が「もう少し居ろ」と引き留めることもしばしばだった。信長は「四大の質や本性、日月星辰、寒い国熱い国の特性、及び諸国の風習等を尋ね」たという(四大は地水火風の四大元素、日月星辰は天体とその運行)。フロイスが精巧な目覚まし時計を持参すると、信長は目を輝かせたが、結局はこう言って受け取らなかった。
「予は甚だこれがほしくはあるが、それを動かせておくことはむずかしくて、予の手に入ったのではこれも無益のものとなろうから、貰うまい」※
少年時代から好奇心の塊だった信長の性質は、天下人になっても変わらなかった。自分には時計を維持できないと見極めて諦める冷静さもまた……。
※『日本史4』(平凡社/ルイス・フロイス著、柳谷武夫訳)201ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」