選手・監督として見てきたホークス、そして王貞治について話を聞いた、工藤公康氏のインタビュー記事をまとめてお届け! ※2026年8月掲載記事を再編。

1.工藤公康がダイエー移籍直後に見た惨状と、チームを変えた“生卵事件”

工藤公康にとって、王貞治とは「雲の上の存在」だった。
「ジャイアンツの4番バッターで、『世界の王』でしたからね」
巨人での現役時代は9年連続日本一「V9」の中心選手。積み重ねた868本の通算ホームラン数は、今も破られぬ世界記録だ。
工藤が西武からフリーエージェント(FA)で福岡ダイエーホークスに移籍した1995年、チームの監督を務めていたのが王だった。
「頼むぞ」――工藤には、決して雄弁ではない王から信頼を置かれるだけの礎があった。
巨人時代は王の先輩でもあった西武の監督、廣岡達郎は「管理野球」と呼ばれるほど、選手にプロ意識を徹底させる指導者だった。
ブルペンでの1球、守備でのノックの1本、バッティングでの1スイング……すべてが試合に通ずるのだと説き、実戦でミスをすれば名指しで批判される。だからこそ西武は、廣岡から森祇晶へと監督が代わっても覇権を堅持できた。工藤が中心的存在として稼働した13年間で11度のパ・リーグ優勝、8度の日本一と、黄金期を築いたのである。
工藤が1995年に移籍した当初のダイエーは、西武とは真逆のチームだった。
バッティング練習では意図が見られず好きなように打つ。守備でミスをしても軽く受け流す。投手陣に至っては、早々に練習を切り上げて帰路に着いてしまう有り様だった。
2.「城島をなんとかしてほしい」王貞治の依頼を一度断った工藤公康が、球界を代表する捕手を育てるまで

扉は常に開いていた。
王貞治が1995年にダイエーの監督となると、選手たちに「監督室を開けているから、いつでも来なさい」と間口を解放した。
ホームランの世界記録保持者でもある「世界の王」。監督自身が心の窓を開いたとて、おいそれと押し寄せる選手は現れなかった。
この年に西武からフリーエージェント(FA)で移籍した工藤公康も同じだったが、彼は声を届けた。悩みを抱えている選手がいる。一歩を踏み出せずにいれば「来いといっているんだから行けばいい」と背中を押す。
そのひとりに吉田豊彦がいた。ダイエーの前身である南海から所属して先発ピッチャーだったが、試合中盤に投げる中継ぎに配置転換され、悶々とした気持ちを抱えていた。
「選手からすれば『話なんか聞いてくれませんよ』となるでしょうけど、僕は『自分の想いを言わないより言ったほうがいい』と付き添うことはありました。実際に王さんは話を聞き、チャンスを与えてくれたわけです」
3.「負ける要素を減らす」工藤公康が明かす、王貞治・秋山幸二から継承した“常勝ホークス”の作り方

王貞治が不屈と熱量を注ぎ醸成していったダイエーは、1999年に初のリーグ優勝と日本一を成し遂げた。翌年にパ・リーグを連覇したチームは、2005年に福岡ソフトバンクホークスと球団名を変えても覇権を維持した。
偉大なる指導者のもとで二軍監督、ヘッドコーチを歴任した秋山幸二が、チームの遺伝子を受け継ぐ。2009年に王から次代を託された監督は、3度のリーグ優勝に2度の日本一と「常勝」としての誇りを守った。
2014年11月。工藤は、その秋山から「強いホークス」を引き継ぐこととなった。
監督就任会見で「恩返し」と言ったことを、工藤は今でも鮮明に覚えている。
「ダイエーにいたとき『こういう道もあるんだよ』と道を示してくれるとか、いろいろと相談に乗ってくれた王さん。そして、福岡で僕を支えてくれた、特に(ダイエーを去る時に残留を求める署名をした)17万6300人のファンのみなさんに『やっと恩返しができるんだ』という想いが強かったんです」
このとき球団会長となっていた王からは、チーム運営について「君の思うようにやってくれ」と、現役時代と変わらぬ信頼を寄せられる。そこで工藤が着手したのが、強きホークスを継承し、革新を果たすことだった。
「王さんから指導を受けた選手はいつか引退するし、秋山さんから教えてもらって主力になった選手だって世代交代の時期がやってくる。だから僕は、おふたりが築いた強いホークスを維持するため、自分で必要だと思っていたものを足していっただけなんです」

