1996年、サッカー日本代表のキャプテンマークは「闘将」と呼ばれた柱谷哲二から、井原正巳へと引き継がれた。それは、日本サッカー界が「フランスワールドカップ初出場」という至上命題に向け、最も過酷な最終予選へと突き進むタイミングだった。前任者の強烈なカリスマ性と、途中で監督が交代するという未曾有の事態、そして台頭する新世代…その荒波の中で、井原はどのように組織をマネジメントしたのか。最終回。【特集 2026FIFAワールドカップ】

強烈な「カリスマ」の模倣を捨て、己のスタイルを確立する
日本代表のキャプテン就任にあたって、井原正巳が最初に直面したのは「前任者との比較」という壁だった。柱谷哲二は味方を鼓舞する「動」のリーダーだった。
「テツさんは、本当に背中で引っ張るし、言葉でも厳しく言う。強烈なリーダーシップを発揮していました。僕はそういうタイプではなかったので、自分なりのキャプテン像をどう作るか、最初は悩みました」
偉大な前任者の後を継ぐリーダーは、無意識にその幻影を追い、自滅してしまうことがある。井原は試行錯誤の末、自分にしかできない「静」のリーダーシップへと舵を切った。
「僕は厳しく言葉を発するよりは、一人一人の話を聞いて、チームの状況を把握し、監督と選手を繋ぐような調整役としてのリーダーシップを意識していました。自分の人間性も含めて、テツさんと同じことはできないと思い試行錯誤しながら、自分のやり方を確立していきましたね」
強権を発動するのではなく、情報のハブ(結節点)となり、組織の風通しを良くする。それは、個の能力が際立ち始めた当時の日本代表において、必要なマネジメントだったのかもしれない。

台頭する若手を「異分子」として排除せず、適材適所で組織を活性化させる
井原が主将を務めた時期は、中田英寿、川口能活、城彰二といった「アトランタ五輪世代」が台頭した時期と重なる。彼らは「ニュージェネレーション」と呼ばれ、先輩に対しても物怖じせず、正論をズバズバと口にする、当時の日本サッカー界では異質な存在だった。
「川口とか中田とか城とかが入ってきた時に、ちょっとその辺のギャップを感じました。彼らは言いたいことをバンバン言ってくるタイプ。でも、そういう時代になったてきたんだなと理解していました。彼らは僕たちよりも上の世代と違って、(ユース世代で)世界大会を経験していた。だから彼らの言うことのほうが真っ当なところもあったんです。だから自分がちょっと折れて、『それもわかるよ』という感じでやっていた部分はあります」
ここで井原が優れていたのは、若手の生意気さを封じ込めるのではなく、その「実力」を認め、さらに中堅選手を「緩衝材」として活用したことだ。
「若い衆をうまくまとめられるような選手もいたんです。中堅クラスの名波浩はそういうのがすごくうまいので、彼らにそういうマネジメントは任せていましたね。そうやって、みんながうまくチームをまとめようとしてやってくれていたところもあります」
リーダーがすべてを抱え込むのではなく、チーム内の人間関係を「構造」として捉え、適した人材にハンドリングを委任する。この柔軟な権限移譲こそが、世代間の摩擦をエネルギーへと変えたのである。

1967年9月18日滋賀県生まれ。守山高校から筑波大学に進み、大学在学中の1988年に日本代表デビュー。1990年に日産自動車(現・横浜F・マリノス)に加入。1990年代、日本代表不動のセンターバックとして君臨し、「アジアの壁」と称された。2000年にジュビロ磐田、2001年に浦和レッズへ移籍し、2002年に現役引退。引退後は指導者に転身し、柏レイソルヘッドコーチ、アビスパ福岡監督、柏レイソルの監督を歴任した。日本代表では長年主将を務め、国際Aマッチ通算122試合5得点。身長1m82cm、体重72kg。
日本サッカー史上初の“未曾有の危機”
井原が最も苦労したと語るのが、1997年のフランスW杯最終予選中の監督更迭劇だ。加茂周監督が解任され、コーチだった岡田武史が昇格。極限状態の中でトップが変わるという、通常では組織が崩壊しかねない事態だった。
「最終予選中に監督が変わることなんて、今まで日本代表では経験していなかったことでした。僕がキャプテンのときにそういうことが起こってしまったので、すごく責任も感じましたし。加茂さんがいなくなり、選手はみんな『自分たちのせいだ』という申し訳なさ、責任感がすごくありました」
揺れ動く現場。その中で井原が徹底したのは、「目標の再確認」と「監督へのコミットメント」だった。
「まずは岡田監督の考えているサッカーに対して、自分がその間に入って、みんなが同じ思いでやれることを意識していました。『岡田さんのために』という思いがあったので、そこはブレずにやれたと思います」
トップが変わっても、ワールドカップ出場という目標は変わらない。井原は監督と選手の板挟みになるキャプテンの役割を、自らを律することで完遂した。
「プレーヤーとしてもキャプテンをすることがプラスに繋がるだろうなと思ってやっていました。それがプレーに対する責任感や、質を上げることにも繋がったと思います」
数々の修羅場を乗り越えた井原は、今、指導者として「今の選手は、なぜこれが必要なのかという納得感がないと動かない。対話と論理的な説明が大事」だと語る。かつて「アジアの壁」と呼ばれた男が築いたのは、強固な守備ラインだけでなく、多様な個を尊重し、論理と対話で繋ぐ、現代的な組織の礎だったのかもしれない。

