1993年10月28日、カタール・ドーハ。深夜のテレビ画面に映し出されたのは、ピッチに崩れ落ちる青いユニフォームの男たちだった。今やワールドカップの常連となったサッカー日本代表だが、かつてその舞台は、手の届かない「異世界の出来事」に過ぎなかった。いかにして日本が世界を射程に捉えるチームへと変貌したのか。「アジアの壁」と呼ばれ、日本のディフェンスラインを支え続けた井原正巳に、その「覚醒」のプロセスを振り返ってもらった。1回目。 【特集 2026FIFAワールドカップ】

1988年、大学2年生時に日本代表入り
1980年代後半、日本サッカーは冬の時代にあった。プロリーグはなく、代表チームもアジアの予選で敗退を繰り返す。大学2年生で日本代表入りした井原正巳にとって、ワールドカップはまだ現実味を帯びた目標ではなかった。
「初めて日本代表に呼ばれたころ、ワールドカップを身近な目標としてはまだ持てない時代で、なかなか行けない大会という感覚でした。自分はとにかくチームに必死でついていくだけで、ワールドカップよりも、まずは自分のことだけで精一杯でしたね」
そんな組織が劇的に変わり始めたのは1992年、初めての外国人監督ハンス・オフトの就任がきっかけだった。オフト監督は「アイコンタクト」や「スモールフィールド」「スリーライン」といった具体的な戦術用語を導入。
「オフト監督になって戦術的にもすごくわかりやすくなったと思います。組織的なサッカーというものが明確になり、その結果、1992年のダイナスティカップ(現E-1選手権)とアジアカップで優勝できた。それで一気にワールドカップを意識できるようになりました」
成功体験の積み重ねが、チームに「結束」という名のエンジンを載せた。ダイナスティカップでは苦手韓国をPK戦で下し、アジアカップではサウジアラビアに勝利してアジアの頂点に立ったことで、選手たちは初めて「自分たちは(ワールドカップに)行けるんじゃないか」という確信を抱き始めたのである。

1967年9月18日滋賀県生まれ。守山高校から筑波大学に進み、大学在学中の1988年に日本代表デビュー。1990年に日産自動車(現・横浜F・マリノス)に加入。1990年代、日本代表不動のセンターバックとして君臨し、「アジアの壁」と称された。2000年にジュビロ磐田、2001年に浦和レッズへ移籍し、2002年に現役引退。引退後は指導者に転身し、柏レイソルヘッドコーチ、アビスパ福岡監督、柏レイソルの監督を歴任した。日本代表では長年主将を務め、国際Aマッチ通算122試合5得点。身長1m82cm、体重72kg。
日本代表の得た「自信」が試された「ギリギリ」の過酷な環境
当時の代表には、現在のようなぶ厚い選手層はなかった。「この人がダメだったらこの人がいる」という状況ではない。しかし、その「替えのきかない」状況が、かえってチームを一つに束ねた。
成功体験、緻密な戦略と、それを共有する仲間への信頼から「自信」が生まれていた。日本代表は、わずか2年の間に「アジアでも勝てない集団」から「世界に手をかける組織」へと変貌を遂げていた。
迎えた1993年10月のアメリカワールドカップ・アジア最終予選。中東カタールでの集中開催という過酷な環境が選手たちを待ち受けていた。連日40度近い猛暑の中、試合日の間隔が中2日の強行軍。極限状態の中で、チームは厳しい戦いを強いられた。
「自分はまだ26歳だったので体力的に平気でしたけど、年上の先輩はきつかったと思います。なおかつ中東で暑さもあり、ハードな日程の中、本当にギリギリのところで戦っていました」

悲劇の結末と、空港で知った「日本サッカー界が得た財産」
しかし、結末は残酷だった。最終戦のイラク戦。勝利をほぼ手中に収めていたロスタイム、同点ゴールを許した瞬間に日本の夢は潰えた。「ドーハの悲劇」である。
「最後イラクに追いつかれてワールドカップ出場を逃して、その時は本当に残念というか、悔しさがありました。(W杯初出場した1998年フランス大会よりも)1大会早くワールドカップに行けていれば、自分の人生も変わっていたのではないかという思いはあります。けれど、その後『やっぱりまだ実力がなかったのか』と思うようになりました」
精も根も尽き果て、帰国の途についた選手たちを待っていたのは、予想だにしない光景だった。成田空港には、敗れ去った彼らを迎えるために多くのファンが詰めかけていたのだ。かつて、敗北しても批判すら浴びなかった無関心の時代は終わっていた。
「(空港で温かく迎えられて)次の4年に向けて前を向こうという思いにさせてくれたのは、助かったところでした」
井原は、空港での熱狂的な出迎えを見て、自分たちが成し遂げたことの大きさを再確認した。結果として予選敗退という「失敗」に終わったが、チームが得た「世界と戦えるという自信」と「社会からの期待」という財産は消えなかった。
そしてこのとき日本が流した涙は、4年後のフランス、そしてその先の未来へと続く、日本サッカー界の真の「産声」となったのである。

