テレビで見ない日はないほどの存在でありながら、どこまでも腰が低く、明るい。“国民的タレント”中山秀征は、いかにして生まれたのか。15歳で群馬から単身上京。仕事が決まらず住む場所を失い、電気もガスも止まった極限の日々を経験した。2025年、芸能生活40周年を迎えた中山が、今だから語れる「最初のピンチ」と、人生を変えた一本の電話とは。 #2/#3

15歳で迎えた、今考えても恐ろしいほどのピンチ
中山秀征のことを知らない大人はほぼいないと言って、けっして大げさではない。
『DAISUKI!』『ウチくる!?』『THE 夜もヒッパレ』『クイズ タイムショック』……平成を生きた日本人なら、一度は目にしているであろうバラエティ番組の数々。そこでMCを務め、令和の今もなおテレビに愛され続ける、まさに“国民的タレント”である。
2025年現在58歳。活動期間が長いゆえに、「自分が子供時代から見てきたのに、いまだ中山秀征は58なのか!?」と驚く人も多いだろう。さらに不思議なのは、子供時代に見ていた中山と、現在の中山のイメージが、ほとんど変わらないことだ。
「いや、さすがに変わっていますよ(笑)。だけど、2025年で芸能生活40周年を迎えて、もうそんなに経ったのかと自分でも驚きますね。撮影現場でも『子供の頃から見ていました』と言ってくださるスタッフが増えて。
17歳でデビューして、あの時はどの現場に行っても自分が一番年下だったのに、今じゃ一番年上の現場が多くなってしまいました。あっという間の40年ですよ」
芸能生活40周年ともなれば、いわゆる大御所であり、近づきがたいオーラも出そうなものだ。
しかし中山はこの日、まるでステップを踏むように軽やかにスタジオ入りし、楽屋に置かれたベビースターラーメンを見て「わぁ、大好きなベビースターがある、ありがとうございます!」とわざわざ楽屋から出て来てスタッフに頭を下げた。その姿はまさに長年テレビで見てきた、明るくて腰が低い中山秀征そのものだった。
「渡辺プロダクションに入ったのは16歳の時で、そこからたくさんお仕事をいただくことができました。でも実はその前に僕は、今考えても恐ろしいと思うくらいのピンチを迎えていまして(笑)。
いろんな人に助けてもらって、今こうして生きて、大好きな芸能活動ができている。そう思うと偉ぶることなんてできないんですよ」
そうして中山氏はデビューまでの日々を語り始めた。

1967年群馬県生まれ。1985年にバラエティ番組『ライオンのいただきます』でデビュー。『DAISUKI!』『ウチくる!?』など数多くの人気番組でMCを務め、現在は『シューイチ』の総合司会としておなじみ。俳優としてはドラマ『静かなるドン』で主演デビューを果たし、歌手としても活動。50歳から書道を始め、個展を開くほか、2025年にはカンヌ国際映画祭で作品を展示した。近著に『人間関係の達人たちから学んだ小さな習慣 気くばりのススメ』(すばる舎)がある。
オーディションに受からず、住む場所も失った上京生活
「僕は14歳の時に地元・群馬の劇団に入り、すぐに火曜サスペンス劇場に出ることができたんです。『これは、すぐにいい役がつくぞ、スターになれるぞ』そんなふうに思ったんですよね。
でも実際はドラマのオーディションってほとんど東京で開催されて、しかも急に『今、来れる?』となる。群馬にいれば少なくとも3時間はかかってしまうので『なら、いいや』なんて言われてしまうことも多くて。僕は『行ければ受かるのに。環境が悪いんだ』と思い込んで、15歳で上京を決めたわけです」
そうして中山少年は中学3年生で群馬を離れひとり上京。神奈川県・川崎の中学に転校した。
「当時15歳で、このまま群馬に残ったら地元の高校に進むしかない。そうなれば、芸能界へのチャンスはなくなってしまうと思ったんです。
今考えれば、15歳の子がひとりで上京して芸能界を目指すなんて、親は心配だったでしょう。僕自身、どうやって親を説得したのかはもう覚えていませんが、母は熱意に根負けしてくれたんでしょうね。母の知り合いが柿生(神奈川県川崎市)に住んでいたので、そこへ行けるように手配してくれました。
でもね、柿生って畑があったり、山が見えたりするのどかな場所なんですよ。群馬から勇んで来て、電車を降りたら『あれ? 風景はあまり群馬と変わらないな』と思いました(笑)」
柿生から新宿までは電車で1本、40分ほど。その距離を行き来しながら、中山は数えきれないほどのオーディションを受けていたという。
「オーディションに行けば、受かるものだと思っていたんですけど、現実はそう甘くはなかった。役はまったくつかず、せいぜいエキストラ止まりでした。
母の知り合いの家に置いてもらっていたのですが、そこもすぐに出なくてはいけなくなってしまって。住む家もなくなり、これはまずい。大見得を切って群馬から出てきたのに、結局逃げ帰るしかないのか、と。
ただ、幸いなことに中学を卒業したタイミングで、担任の先生がこっそり『うちに住んでいいぞ』って言ってくださったんです」
その担任教師は、中山の卒業と同時に転勤が決まり、柿生を離れることになっていた。自分が引っ越したあとも、アパートの契約が切れるまでの数ヵ月はそこに住んでいい、と言ってくれたのだという。
もちろん、教師が16歳の少年に一人暮らしをさせていることが学校に知れたら大変なことになる。今だから語れる、「夢を諦めてほしくない」という思いからの、リスクをともなう決断だった。
「だから、なんとしてでも役を勝ち取らないといけないと思いました。劇団からオーディションの話を待つだけではなく、自分で動こうと。当時あったオーディション雑誌を見て、いろいろな事務所を片っ端から受けました。
その間は、実家からの仕送りでなんとかしのいでいましたが、それでもお金は足りない。食事は1日1回。近所の中華屋のチャーハン餃子セット450円を夜に食べるだけという生活が続きました」

合格の電話を受けた直後、電話回線が止められた
そんな生活のなかで、中山氏の身体に異変が起こる。朝、目を覚ますと身体が動かず、視界も見えなくなっていたのだという。
「病院に運ばれて、お医者さんに『栄養失調です』と言われました。日本で栄養失調って、戦後以来なかなかないでしょう? 先生も『栄養失調の人、初めて見ました』って驚いていましたよ」
担任教師が残してくれたアパートでは、光熱費を払えず、まずガスが止まり、次に電気が止まった。
しかし、ちょうどその頃だった。オーディションを受けていた現在の所属事務所、渡辺プロダクションから電話が鳴る。
「合格の連絡でした。そして、その電話を切った直後に、先生のアパートに残してもらっていた電話が止められたんです。あと数分、渡辺プロからの連絡が遅くれていたら、僕はその電話を受けることができなかった。本当にギリギリでした」
電気もガスも、そして電話も止まり、残るライフラインは水道だけ。そのアパートをギリギリ脱出し、16歳の中山は、渡辺プロダクションの寮へと移っていった。
栄養失調でガリガリに痩せていたひとりの少年は、そこから誰もが知る“中山秀征”へと歩みを進めていく──。
インタビュー第2回では、デビュー後の華々しい活躍の裏にあった、芸能人生2度目のピンチについて語る。

