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2025.12.21

中山秀征「”テレビタレント”に徹しようと思った」ホンジャマカ石塚、三谷幸喜との修行時代、ABブラザーズでの成功と解散

16歳で渡辺プロダクションに合格し、ようやく芸能界のスタートラインに立った中山秀征。ホンジャマカの石塚英彦、当時大学生だった三谷幸喜ら仲間と過ごした修行の日々、ABブラザーズとしての成功と挫折、そして解散ーー。激動の20代を駆け抜けた末に中山がたどり着いたのは、「芸人でも俳優でもアーティストでもない」という独自の立ち位置だった。40年にわたり第一線に立ち続ける、その理由に迫る。 #1#3

仲間と挫折のなかで見つけた居場所。中山秀征が選んだ“テレビタレント”という生き方

ホンジャマカ石塚英彦、大学生の三谷幸喜らと過ごした修行時代

芸能界デビューを目指し、15歳で群馬から単身上京。

オーディションを受ける日々のなか、電気もガスも止められ、栄養失調にまで陥った中山秀征。一縷(る)の望みをかけて、芸能事務所・渡辺プロダクションのオーディションを受け、16歳で合格。晴れて渡辺プロの一員となった。

「渡辺プロの寮に入ったら、ちゃんと食事が出るんですよね。それまで1日1食でしのいでいたから、本当にありがたくて。身長も低くてガリガリで『チビ』なんて呼ばれていましたが、寮に入って1年で10cm以上身長が伸びたんです。

当時僕は『第二の吉川晃司募集』というフレコミのオーディションに受かっていたので、最初に始めたのは歌のレッスンでした。でもそこから渡辺プロが『これからはバラエティの時代だ』とお笑い強化に舵を切り、事務所に入って半年ほどで、お笑いをやることになったんです」

同事務所のお笑い部門の同期には、のちに活躍する錚々(そうそう)たる同期がいた。

「お笑い部門に行ったら、ホンジャマカの石塚英彦さん、僕の相方となる松野大介、そして当時大学生だった三谷幸喜さんが放送作家として在籍していました。

石塚くんとネタをやったり、三谷さんの書いたコントを演じたり。みんな“お笑いの作法”なんて知らないので怖いものなし(笑)。楽しみながら修行していった時代でしたね」

僕らは脆かった。だけど、負けたくなかった

1985年、松野大介とABブラザーズを結成。バラエティ番組『ライオンのいただきます』への出演などで知名度を上げていく。

「1年目から『オールナイトニッポン』の土曜日1部と2部の4時間をABブラザーズに任せてもらいました。18歳でラジオ番組、史上最年少だったんですよ。当時『オールナイトニッポン』のパーソナリティっていったら、(ビート)たけしさんなど錚々たる顔ぶれ。ものすごいところに並んでしまったなと。

さらにその半年後に僕は『ハーフポテトな俺たち』というドラマで主演に。主題歌は一世風靡したレベッカですよ! この頃の僕は、なんでもできる、怖いものなんてない、そんな感覚でした」

しかし、絶頂期は長く続かなかった。結成からわずか3年で、「ABブラザーズは古い」と世間に言われるようになってしまう。とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンーーのちに「お笑い第三世代」と呼ばれる、圧倒的な波が押し寄せたのだ。

「『オールナイトニッポン』が終わり、気がつけば主演ドラマの話もなくなっていました。僕らはまだ21歳なのに、ダウンタウンやウッチャンナンチャンに比べて“古い”と言われ始めた。

年代的にはABブラザーズもこの『第三世代』とくくられることが多いのですが、彼らより少し早く世に出たことで、このお笑いムーブメントに乗ることができなかった。そもそも彼らは、学生時代からコンビを組み、志も一緒。それに対して僕らは、『なにかをしたい』という気持ちを持った人間同士を、会社が組み合わせたコンビでした。

僕は歌を歌うつもりで芸能界に入ったので、どこかで『なんでお笑いやっているんだ?』という気持ちもあった。相方も、もともとはピン芸人なのに僕と組まされ、アイドル的な売り方をされて戸惑っていたはずです。お互いに噛み合わなくなってきたところに、第三世代の波が来てしまった」

この時期を、中山は「栄養失調で倒れた16歳の時以来のピンチだった」と振り返る。しかし、当時を語るその表情に悲壮感はなかった。

「僕らは脆(もろ)かった。でも、解散という言葉が浮かんでも『負けたくない』とムキになって、新ネタづくりに躍起になっていました。一方で、僕はバラエティ番組への出演が増え、どんどん“テレビタレント”の立ち位置になっていく。

相方は作家活動への思いが強くなり、お互いに『コンビとして戦うのはもうやめよう』となった。最後は『道は変わっても頑張ろう』と別れました」

中山秀征/Hideyuki Nakayama
1967年群馬県生まれ。1985年にバラエティ番組『ライオンのいただきます』でデビュー。『DAISUKI!』『ウチくる!?』など数多くの人気番組でMCを務め、現在は『シューイチ』の総合司会としておなじみ。俳優としてはドラマ『静かなるドン』で主演デビューを果たし、歌手としても活動。50歳から書道を始め、個展を開くほか、2025年にはカンヌ国際映画祭で作品を展示した。近著に『人間関係の達人たちから学んだ小さな習慣 気くばりのススメ』(すばる舎)がある。

芸人でも、ミュージシャンでもない。「テレビタレント」でありたい

ABブラザーズ解散の前年、松本明子と飯島直子らとレギューラーを務めた深夜番組『DAISUKI!』が大ヒット。深夜帯ながら高視聴率を連発し、90年代を代表する伝説的番組となったことで、中山の人気は再び上昇。1994年にはドラマ『静かなるドン』で主演も果たした。

「『牛の尻尾ではなく鶏の頭』と言いますけど、大きな世界の末端にいるより、小さい世界でも自分が独立して頭になったほうがいい。そう考えて、ひとつ流れが終わっても、次の流れを見つけていく。そんな気持ちで必死でした」

もともとは歌手に、そして役者になりたかった。そしてその両方の夢も叶えながら、お笑いや司会業にも突き進んできた中山。だからこそ、自分を表現する言葉が「テレビタレント」だった。

「事務所の先輩にクレイジーキャッツやドリフターズがいましたが、どちらもミュージシャンなんです。お笑い芸人が舞台に立っているのではなく、ミュージシャンがコメディをやっている。

志村けんさんは『俺は芸人ではなくコメディアンだ』と言っていました。『芸人』と『コメディアン』って違うんですよ。だから僕も、コンビは組んでいたけど、自分が『芸人』だとは思わなかった。

だんだんバラエティ番組の司会業が増えてきて、自分は『テレビタレント』に徹しようと思ったんです。芸人でもない、アーティストでもない。でも、ドラマにも出るし、お笑いもやるし、歌も歌うし、司会もする。そういう『テレビタレント』。

テレビの世界に憧れて15歳で上京して、テレビのなかでなんでもやる。そういう『テレビタレント』でいたかったし、これからもそうでありたいですね」

40年間、中山は“テレビタレント”として、いつも物腰柔らかな笑顔で視聴者の前に立ち続けてきた。これからの目標を尋ねると、間を置かずにこう答えた。

「40周年なんて、あくまで通過点のひとつ。これからも新しいことをやってみたいですね。僕は書道をやっていて展覧会なども開催しているんです。その流れで、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で書道家の役をやらせてもらいました。

書道が広げてくれた新しい世界があった。だから2026年は、もっとたくさん書いていきたいなと思っています。まずは、書きたいと思う文字に出会いたいですね」

インタビュー第3回目は、家族への想いを語る。

TEXT=安井桃子

PHOTOGRAPH=杉田裕一

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