研ナオコと中尾有伽が主演を務める映画『うぉっしゅ』が公開中。今回、研ナオコの価値観や仕事観に迫ったインタビュー記事をまとめてお届け! ※2025年5月掲載記事を再編。

1.研ナオコ「私に認知症の症状が表れたら教えて。施設ではなく、身内に面倒見てほしいな」

映画『うぉっしゅ』の見どころの1つはラストシーン。介護用ベッドに身を預けた紀江の微笑みは慈しみに満ち、観てよかったなあー、という気持ちになる。
「紀江を演じてほしい」。そう岡﨑監督から出演依頼が来た際、研は条件付きで応じたという。
「私がベテランだからといって、気を遣って芝居にOKを出すようなことはしないでほしい」
「納得がいくまで何テイクでも撮り直し、本当にいい作品を目指すなら引き受けます」
その真意について、研自身に聞くと――。
「撮影で、なんだかイマイチだと思っているのに『まっいっか』で次に進むのが、嫌なんですよ」
現場に入ったら、役割もキャリアも超えて、お互いイーブンな関係で厳しくジャッジし合おうという“真剣勝負宣言”だ。実際に別の作品で「まっいっか」という状況を体験したのだろうか。
「ううーん……。わかんない。でも、私もすいぶんキャリアを重ねてきたから、気づかないだけで、そういうことが起きているのかもしれません。もしそうだったら、嫌なんです。岡﨑監督は私の孫でも不思議じゃないくらいの年齢だから、気を遣わせちゃいそうでしょ。それで、念押ししたんです」
撮影中、監督が、監督でなくてもできる雑務をやろうとすると、研は制作に集中するように助言したという。
「岡﨑監督は人柄がいいから、雑務も自分の手でやろうとするんですよ。例えばゴミ箱の片づけとか、そんなことは、みんなは求めていない。それよりも、いい映画にしてほしい。雑用もいとわない姿勢、愛すべき人柄だと思いますよ。でも撮影現場でみんなに指示を出す役割の監督としては、よくないと思う。もっとやらなくてはいけない仕事があるんだから」
2.研ナオコ「仕事は生きがい。身体が動かなくなるまで働きます。しゃべれなくなるまでやります」

研は名作ドラマ『時間ですよ』(1973年放送)にゲスト出演して以来50年以上、数々の映画やドラマやコントで注目されてきた。『ありがとう』『西遊記Ⅱ』『相棒』など、日本のドラマ史に残る作品でも印象的な役を担っている。
「でも、やっぱり女優は本職じゃありません。それは、ずーっと思い続けています」
静岡県天城で生まれ育った研が東京に出たのは1970年。東京宝塚劇場でアルバイトをしながら歌手を目指した。デビューは1971年。東宝レコードから「大都会のやさぐれ女」をリリースする。
その後1970年代前半はなかなかヒットが生まれなかったが、作家に恵まれた。作詞家の阿久悠や、作曲家の森田公一や筒美京平など日本の歌謡界の名作家たちが彼女に作品を提供している。
ブレイクしたのはキャニオン・レコードに移籍した1975年。9枚目のシングル「愚図」だった。作詞は阿木燿子。作曲は宇崎竜童。日本の歌謡シーンを代表する作家チームは、しかし、このときはまだヒット曲は少ない。前年、宇崎がダウン・タウン・ブギウギ・バンドに書いた「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で話題になりだしたところだった。阿木=宇崎の夫妻が「横須賀ストーリー」をはじめ山口百恵の歌唱でヒット曲を量産するのは翌1976年から。しかし、研のスタッフはすでに2人の才能に注目していた。
歌詞の主人公は“愚図”なお人好し。自分の心を偽って、好きな男と猫かぶりの女の仲をとりもつ。一人称を“アタシ”と歌うやさぐれ感は研がまとうアンニュイな雰囲気と妙にマッチし、多くのリスナーが感情移入した。
「あの曲は間違いなく転機になりました。私自身すごい歌だと思って歌っていたし、今も歌っています。阿木さんと宇崎さんだからこその情念、すごいでしょ。あれで歌手としての自分のステージが変わったことを実感しました」