“バスケ芸人”としての地位を確立し、新境地を切り開いているお笑いコンビ・麒麟の田村裕のインタビュー記事をまとめて紹介! ※2024年3月掲載記事を再編。
1.「ほぼ仕事ゼロ、ドン底だった人生が一変」麒麟・田村裕を救った芸人仲間
お笑い芸人・田村裕の人生を変えた、自叙伝の爆発的ヒット。
2007年8月刊行の『ホームレス中学生』が200万部を超える大ベストセラーになると、田村は周囲から「先生」ともてはやされた。
相方である川島明とのコンビ・麒麟でM-1グランプリのファイナリスト常連となり、着実に芸人としての力を伸ばしていた時期ではあったが、『ホームレス中学生』によって田村は一気に世の中から注目され、信じられない量のスポットライトを浴びることになった。
「本がヒットした後は、みんなチヤホヤしてくれた。でもそれも一時期のことで、徐々に熱が冷めていき、近くにいた人たちはスーッと去っていきました。世間からは見下され、少しでもテレビに映ると、SNSで『まだ生きてたんだ』とか書かれる。『川島と違って田村は終わった』とか、そんなことも散々言われました」
川島のピンでの露出が増えるのとは対照的に、田村の仕事量は右肩下がり。2017年頃には「探偵!ナイトスクープ」を除けば、ほぼテレビ出演の仕事がない状態に陥る。
元来ネガティブな性格だったこともあり、精神的にもかなり追い詰められ、まさにドン底だった田村。しかし、そんな状況のなか、ある芸人仲間の言葉に救われたという。
「僕はNSC(吉本タレント養成学校)時代からずっと、周りから『お前は才能がない』と言われ続けてきて、主役を活かす盛り上げ役に徹することが自分の生きる道だと叩き込まれてきました。『自分は面白くない』と卑下するのが当たり前になっていて……。でも、『探偵!ナイトスクープ』で同じ楽屋だったスリムクラブの真栄田が、そんな僕に対して『あなたはめちゃくちゃ面白い。だから自信を持て』と会うたびに言ってくれたんです」
最初は「誰にでも同じことを言っているんやろ」と相手にしていなかったが、しつこく何度も同じ言葉をかけられるうちに、心が動いた。
2.「芸人としての欲はまだまだある」ホームレス中学生からバスケ芸人へ、麒麟・田村裕の現在
自叙伝『ホームレス中学生』での大ブレイク、そしてほとんど仕事がない暗黒時代を経て“バスケ芸人”としての地位を確立した、お笑いコンビ・麒麟の田村裕。
「今はバスケに関わる仕事がかなり増えました。お笑い芸人の仕事とバスケ関連の仕事の割合は、半々ぐらいですね」
小学生を対象としたバスケスクールの運営も手がけ、現在は関西で6校を展開、7校目の設立にも動いている。既に計200人近い生徒を抱え、近く東京にも進出する予定だ。
田村が監修するYouTubeチャンネル「麒麟田村のバスケでババババーン!」は、登録者数5万人超え(2024年3月現在)。また、プロバスケットボール選手の岡田優介、お笑い芸人の大西ライオンとともに、3x3(3人制バスケ)チーム「TOKYO DIME」の共同オーナーも務めている。
バスケは“ホームレス中学生”として極貧時代を過ごした時期に、田村の心の支えとなった大切なスポーツ。その仕事ぶりからは、バスケへの恩返しの思いも伝わってくる。
「バスケの仕事は、あまり“ビジネス”という感じでは捉えていません。息抜きの延長というか、楽しくやっています。バスケスクールだって、ビジネスとしては正直成り立っていない。本当はもっと多く月謝を取ってもいいんでしょうけど、少しでも多くの子供たちにバスケをしてほしいから、これ以上価格を上げたくないんです」
2009年からレギュラー出演する「探偵!ナイトスクープ」に加え、2023年5月からは朝の人気情報番組「よ~いドン!」の人気コーナー「いきなり!日帰りツアー」を担当するようになるなど、芸人の仕事も一時期のドン底状態を脱した。
相方である川島明からは「本当にバスケしかしていない。週8でバスケをしている」とイジられるが、田村の仕事の軸はあくまで“お笑い”にある。
「『ホームレス中学生』のヒットで嘘みたいに売れたけど、その熱が冷めたら一気にテレビに出られなくなりました。でも、『田村は通用しなかったな』で終わるのは嫌。『あいつ、おもろいやん』って思われたいという“お笑い芸人としての欲”は、まだまだあります」
3.「正直、苛立ちもあったと思います」麒麟・田村が明かす、相方川島との出会い、関係性の変化、そして葛藤…
性格の暗そうな色白の男が、目を血走らせながらピンでネタを披露していた。
NSC(吉本タレント養成学校)のネタ発表の授業。高校の1年先輩とのコンビを解消した直後だった田村裕は「ネタの構成力、完成度が半端ない」と心を奪われ、授業後すぐに声をかけた。それが現在の相方、川島明との出会いだったという。
「川島は引っ込み思案丸出しで、今でいう“コミュ障”の雰囲気がえげつなかった(笑)。でもそんなことより、ネタが当時のNSC生のなかでも抜群に仕上がっていたので、『次の相方はこいつしかいない』と思いましたね」
出会った直後こそ内気な川島を田村がリードしていたが、すぐにパワーバランスは変化。淀川の河川敷で行った1発目のネタ合わせで、田村は「はい、どーも」と言うべき冒頭を「まい、どーも」と噛んだ。
「それに始まり、いたるところで僕のポンコツ具合が露呈。麒麟結成から1年も経たないうちに、上司と部下みたいな関係性になりました。川島からしたら、『自分のやりたいお笑いをこいつと一緒にいてできるのだろうか』という苛立ちもあったのだと思います。かなり厳しいことを言われていた時期もあったので、正直、僕自身もストレスがすごかった」
そんなふたりの関係が変わり始めたのは、結成5年目の頃。川島が漫才の台本にツッコミの台詞を敢えて書かないことを提案(川島はボケ、田村はツッコミ)。それは、2004年のM-1を制したアンタッチャブルの真似だったという。
「そうしてからだいぶウケるようになりましたね。僕自身の言葉を使うことで全体として自然な漫才になって、お客さんも笑いやすくなったんだろうなと。それを機に川島との関係も少しずつ対等になっていきました。夫婦でも職場でも何でもそうですけど、色々と我慢しなければいけない時期は必ずある。そこを耐えた先に、見えてくるものがあると思います」
川島が考えた言葉を覚えて再現するのではなく、自分の言葉でツッコむ。そのやり方が田村には合っていた。また、お客の反応を見てニュアンスを変えるなど、場の空気に応じて臨機応変に対応する力をつけていった。
4.芸能界屈指のバスケ通・麒麟の田村が激推しする、バスケ界のライジングスターとは!?
お笑いコンビ・麒麟の田村裕は現在、学生時代に打ち込んでいたバスケットボールの活動を仕事に活かすなど、お笑いをメインフィールドにしつつも活躍の幅を広げている。
高校時代はチームで最も背が高かったため、ゴール下を主戦場とするセンターというポジションを担当。しかし、オフェンス時はゴール下ではなく、3Pライン付近のいわゆる“シューター”の位置に入った。
「貧乏でご飯をあまりたくさん食べられずパワーはなかったけど、身長が高かったからセンターでした。でも、下手くそでオフェンスでは何もできないので、シューターのフリをして外に開いて、ボールを持ってもシュートは1本も打たない(笑)。相手のセンターを外に吊りだすことが目的だったので、これでも大切な役割だったんですよ」
試合ではエース格に自由にプレーしてもらうための潤滑油に徹した。田村は常にフロアバランス(コート上で5人の選手が占めるポジションのバランス)を意識して動いていたことで、バスケを見る目が磨かれたという。
「その経験のおかげで、僕はバスケの技術はないけどフロアバランスを把握することに関しては長けている。バスケ関係者の方と話をすると『田村さん、そんなところを見てるんですか。よく分かっていますね』と感心されることもあります。高校時代に“偽シューター”だったことが、今に活きている」