お笑いトリオ「ロバート」として活躍する傍ら、大の歴史好きとしても知られる山本博さん。ビジネスパーソンに知って欲しい、偏愛武将をまとめて紹介! ※2024年2月掲載記事を再編。
1.「俺は織田信長にはなれない…」歴史好き芸人・ロバート山本はなぜ、戦国時代に魅了されるのか?
芸人きっての歴史好きで知られ、歴史好き芸人のユニット「六文(ろくもん)ジャー」としても活動するお笑いトリオ・ロバートの山本博さん。歴史に興味を持ったきっかけは、よく戦国時代の話を聞かせてくれた山本さんのおばあちゃんだったという。
「おばあちゃんは小さい僕に『戦国武将たちもそれぞれに得意なことと苦手なことがあって、みんなが互いの弱さを補いあいながら生きていたんだよ』みたいな話をしてくれました。当時の僕は、どの武将が一番強くてカッコいいのかを知りたかったんですけど(笑)。でも大人になった今振り返ると、すごく深いことを教えてくれていたんだなと思います」
おばあちゃんの話で歴史に興味を抱いた山本さんは、学校の授業で戦国時代について勉強することを楽しみにしていたそうだが……。
「いざ歴史の教科書を開いたら、戦国時代は2ページくらいしかなくて。 授業も一瞬で終わりですよ。年号の暗記ばかりで面白くないし、そこから学校の勉強にはいっさい興味がなくなってしまいました。歴史はマンガとかゲームで楽しむようになりましたね。特に『信長の野望』にはどハマりして、天下統一を目指してやりこんでました」
マンガやゲームから、徐々に歴史がテーマの映画や司馬遼太郎の『燃えよ剣』などの歴史小説も読むようになっていった。
「もともと僕はあまり本を読めない人間でしたが、おばあちゃんが『勉強はしなくてもいいから、とにかく本は読みなさい。読書は“勉強”じゃなくて“趣味”なんだから、楽しいと思うものだけ読めばいい』と言っていたのを思い出して、しだいに歴史の本を手にとるようになりました。そうしたら、とても面白かった。マンガやゲームで蓄えた知識のおかげで、字を読んでいてもその情景が浮かんでくるんですよね」
2.ロバート山本、生き様がカッコ良すぎる武将=鳥居強右衛門とは
「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が活躍したのは、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った『長篠の戦い』です。織田軍が鉄砲の三段撃ちを行ったとされることで有名な戦ですが、彼は家康に仕えた奥平家の足軽のひとり。かなりの歴史好きなら知っているかもしれませんが、一般的にはほとんど知られていない人物だと思います」
鳥居強右衛門が仕えた奥平家は、今川氏や織田氏、松平氏(後の徳川氏)、武田氏と転々と所属先を変えてきた一族。長篠の戦いの前には、武田方から徳川方に寝返っており、それが武田勝頼の怒りを買っていた。
そして奥平家は長篠城の守備を家康から託されるが、500名程度の城兵しかいない状態で、武田の1万5千人の軍勢に包囲されてしまう。
「長篠城は武田と徳川の戦いの最前線。ここを取った側が優位に立てる超重要な場所です。武田側は城に使者を出して、『諦めて寝返れ』と伝えてきたそうですが、城を任されていた奥平貞昌(さだまさ)は裏切ることなく、家康のいる岡崎城に援軍を要請することになります。でも、城の周りは包囲されていて抜け出すなんて不可能だし、命が何個あっても足りないと誰もが思っていた。その時、伝令を志願したのが鳥居強右衛門だったんです」
3.伊達政宗を支え続けた最強のNo.2、片倉景綱
「片倉景綱(かたくらかげつな)は伊達政宗より10歳ほど年上で、子供の頃からその教育係となり、軍事、外交、内政などあらゆる面で政宗を支えた人物です。伊達政宗は破天荒で大胆なエピソードが多い人物ですが、それを裏で上手く収めていたのが景綱なんです」
そんな景綱の政宗への忠義を物語る、以下の逸話が山本さんは特に好きだそう。
「豊臣秀吉や徳川家康が一目置く“豪気の人”であった政宗ですが、実は小さな頃は病気がちだったといいます。ある時、政宗の脇腹に出来物ができてしまい、痛くて夜も眠れない時期が続いた。政宗は自分でそれを切り取りたかったんですが、当時の武将にとって腹の傷は切腹を連想させるため不名誉なことで、『病気を苦に切腹したと思われるのは嫌だ』と景綱に相談したそうです」
それを聞いた景綱は、真っ赤に熱した金属の棒を持ってきて自分の太ももに突き刺し、命に別状がないことを自分自身で確かめてから、それを政宗の腹に刺して出来物を焼き切った。
「政宗の腹の傷は1ヵ月程度で治ったそうですが、景綱の足の傷は3ヵ月治らず、さらに後遺症として引き攣(つ)れが残ってしまったといいます。自分を犠牲にしてでも、主君である幼い政宗を勇気づけるその姿、まさに“忠義の士”ですね」
4.徳川家康を守った16歳の猛将・丹羽氏重
丹羽氏重(にわうじしげ)は16歳で亡くなった、徳川家の家臣。氏重が名を残したのは「小牧・長久手の戦い」で、羽柴(後の豊臣)秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦だ。
「本能寺の変で織田信長とその長男の信忠(のぶただ)が亡くなった後は、次男の織田信雄(のぶかつ)が後継者の筆頭となりました。そんななかで秀吉は大きな力をつけ、織田家を乗っ取ろうとする。そこで信雄は家康を頼り、『小牧・長久手の戦い』が起こったわけです」
兵力は秀吉陣営が圧倒的に上だったが、家康は要所である小牧山城を先に占拠。家康は土塁などを整備し、戦いを有利に進めようするも、秀吉方の武将・池田恒興(いけだつねおき)や森長可(ながよし)らは小牧山城には目もくれず、家康が留守にしていた本拠地の三河地方へ攻め入ろうとした。三河が攻められることになれば、家康は大ピンチだ。
「池田恒興と森長可が三河へ進む途中にあったのが、岩崎城という小さな城。城を預かっていたのが16歳の丹羽氏重でした。本当の城主は20歳ほど年上の兄・氏次(うじつぐ)でしたが、家康に従軍していて留守にしていたんです」
岩崎城を守備していた兵士は200名程度。一方の池田恒興たちが率いる軍勢は7,000名だったともいわれている。
「圧倒的な戦力差ですよ。なので、池田軍は岩崎城なんて無視して目の前を通過したんですが、丹羽氏重は『ここで見過ごすのは末代までの恥になる!』と城兵を説得して、討死覚悟で打って出ました。池田軍も、まさかと思ったでしょうね」