お笑いトリオ「ロバート」として活躍する傍ら、大の歴史好きとしても知られる山本博さん。戦国時代を愛する山本さんが推薦する「生き様がカッコ良すぎる武将」とは? 今回は鳥居強右衛門(とりい すねえもん)について。#1
長篠の戦いを勝利に導いた“一発屋”
「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が活躍したのは、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った『長篠の戦い』です。織田軍が鉄砲の三段撃ちを行ったとされることで有名な戦ですが、彼は家康に仕えた奥平家の足軽のひとり。かなりの歴史好きなら知っているかもしれませんが、一般的にはほとんど知られていない人物だと思います」
鳥居強右衛門が仕えた奥平家は、今川氏や織田氏、松平氏(後の徳川氏)、武田氏と転々と所属先を変えてきた一族。長篠の戦いの前には、武田方から徳川方に寝返っており、それが武田勝頼の怒りを買っていた。
そして奥平家は長篠城の守備を家康から託されるが、500名程度の城兵しかいない状態で、武田の1万5千人の軍勢に包囲されてしまう。
「長篠城は武田と徳川の戦いの最前線。ここを取った側が優位に立てる超重要な場所です。武田側は城に使者を出して、『諦めて寝返れ』と伝えてきたそうですが、城を任されていた奥平貞昌(さだまさ)は裏切ることなく、家康のいる岡崎城に援軍を要請することになります。でも、城の周りは包囲されていて抜け出すなんて不可能だし、命が何個あっても足りないと誰もが思っていた。その時、伝令を志願したのが鳥居強右衛門だったんです」
500人の仲間を救うため、下水、川、山を超え、走り続けたひとりの男
強右衛門は夜陰に乗じて下水溝を通り、糞尿まみれになりながらもなんとか城外に出ることに成功。川に潜ることで武田軍の包囲網を無事突破して、脱出の成功を告げる狼煙を近くの山から上げた。
「それを見た長篠城の500人の城兵は『強右衛門がやってくれたぞぉ!』と大興奮。消えかかっていた士気も爆上がりしたわけです」
そこから強右衛門は50km近くの山道を1日で走り抜け、見事岡崎城に到着して援軍を要請。家康も強右衛門の労をねぎらったという。
「家康は『明日にはすぐ援軍を出すから、今は温かいものでも食べて休みなさい』と言ったそうですが、強右衛門は固辞。『長篠城のみんなは食料もないなか、援軍の到着を待っている。私もすぐに戻って、援軍が到着することを伝えねばなりません!』と伝え、その足ですぐ引き返したそうです。何も食わず、休まずですよ!」
強右衛門は援軍の到着をいち早く伝えることで、城の士気をさらに上げ、ひとりでも多くの仲間を助けたかったのだろう。
だが長篠城に近づいたところで、強右衛門はとうとう武田軍に捕まってしまい、援軍到着の予定も武田軍に露見してしまった。
「焦った武田勝頼はいち早く長篠城を攻略するため、強右衛門に『長篠城の連中に、援軍は来ないから早く城を明け渡すべきだと言え。そうすればお前を助けるだけでなく、武田家の家臣として厚遇してやる』と条件を出しました。強右衛門に嘘をつかせて城兵の士気を下げようとしたわけですね。強右衛門はその命令を了承し、長篠城の前まで引き立てられていった。しかし、そこで強右衛門は一転、『2、3日もすれば3万の援軍が助けに来るぞ! それまでここで持ちこたえろ!』と叫んだんです」
命令を反故にした強右衛門は、その場で武田軍に殺されてしまう。だが、その姿を見た長篠城の城兵たちは、「強右衛門の死を無駄にしまい!」と士気を大きく高めたそうだ。
「そうやって長篠城が奮闘しているうちに、織田・徳川連合軍が到着。武田軍は滅亡に追い込まれる大敗を喫しました。強右衛門の働きがなければ援軍の到着も間に合わず、長篠城も持ちこたえられなかったはずですし、長篠城を武田軍が落としていたら、武田軍と織田・徳川連合軍の全面戦争も起こらず、歴史が変わっていた可能性さえあります」
強右衛門の勇姿は語り継がれ、援軍の総大将だった信長も、長篠城の味方を救うために犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、立派な墓を建立させたと伝えられている。
「このひとつのエピソードだけで歴史に名を残した強右衛門は、いわば“一発屋”といえるかもしれませんね。有名ではないですが、本当に素晴らしい人物だと思います」