発行部数200万部超えの大ベストセラーとなった自叙伝『ホームレス中学生』のヒットから約17年。お笑いコンビ・麒麟の田村裕は今、バスケスクールを複数運営するなど“バスケ芸人”としての地位を確立している。一方、相方である川島明は、2023年実に586本もの番組に出演、テレビで見ない日はない超売れっ子だ。そんな川島を、田村はどのように見ているのだろうか? #1/#2
何度も変わった、川島とのパワーバランス
性格の暗そうな色白の男が、目を血走らせながらピンでネタを披露していた。
NSC(吉本タレント養成学校)のネタ発表の授業。高校の1年先輩とのコンビを解消した直後だった田村裕は「ネタの構成力、完成度が半端ない」と心を奪われ、授業後すぐに声をかけた。それが現在の相方、川島明との出会いだったという。
「川島は引っ込み思案丸出しで、今でいう“コミュ障”の雰囲気がえげつなかった(笑)。でもそんなことより、ネタが当時のNSC生のなかでも抜群に仕上がっていたので、『次の相方はこいつしかいない』と思いましたね」
出会った直後こそ内気な川島を田村がリードしていたが、すぐにパワーバランスは変化。淀川の河川敷で行った1発目のネタ合わせで、田村は「はい、どーも」と言うべき冒頭を「まい、どーも」と噛んだ。
「それに始まり、いたるところで僕のポンコツ具合が露呈。麒麟結成から1年も経たないうちに、上司と部下みたいな関係性になりました。川島からしたら、『自分のやりたいお笑いをこいつと一緒にいてできるのだろうか』という苛立ちもあったのだと思います。かなり厳しいことを言われていた時期もあったので、正直、僕自身もストレスがすごかった」
そんなふたりの関係が変わり始めたのは、結成5年目の頃。川島が漫才の台本にツッコミの台詞を敢えて書かないことを提案(川島はボケ、田村はツッコミ)。それは、2004年のM-1を制したアンタッチャブルの真似だったという。
「そうしてからだいぶウケるようになりましたね。僕自身の言葉を使うことで全体として自然な漫才になって、お客さんも笑いやすくなったんだろうなと。それを機に川島との関係も少しずつ対等になっていきました。夫婦でも職場でも何でもそうですけど、色々と我慢しなければいけない時期は必ずある。そこを耐えた先に、見えてくるものがあると思います」
川島が考えた言葉を覚えて再現するのではなく、自分の言葉でツッコむ。そのやり方が田村には合っていた。また、お客の反応を見てニュアンスを変えるなど、場の空気に応じて臨機応変に対応する力をつけていった。
しかし、2007年の『ホームレス中学生』の大ヒットで田村は一躍時代の寵児(ちょうじ)となり、再びコンビのパワーバランスが崩れた。
田村だけ番組に呼ばれることが当たり前となり、たまにあるコンビの仕事でも、田村にのみピンマイクがつき川島にはつかないなど、制作サイドの対応も激変。それまでの「麒麟の顔は川島」という周囲の評価が、瞬く間に覆った。
「そんな状況で川島は卑屈になっていたと思うし、やっぱり関係はギクシャクして、かなり険悪だった時期もありました。僕も調子に乗って“俺が麒麟のキャプテンだ!”と頑張りましたが、いかんせん実力が足りなくて……。結果的に、すぐに川島に引っ張ってもらう状態に戻りました」
「僕が一番、川島の実力を知っています」
2023年、川島のテレビ番組出演本数は586本にものぼり、全タレントのなかで堂々の1位。TBSの『ラヴィット!』など数多くのレギュラー番組を持ち、テレビで見ない日はないと言っても過言ではない。
「川島はNSC時代から同期のなかでも頭ひとつ抜けた存在だったし、その頭の回転の速さ、コメントの的確さは正直、芸能界でもトップクラスだと僕は思っているんです」
田村ほど、川島のお笑い芸人としての実力を評価している人間はいない。また、早い段階からMC向きであることも見抜き、売れていない時期からマネージャーに「川島にMCの仕事を取ってきてほしい」と要望していたという。
「僕は川島のおかげでここまで来れたし、自分の実力以上の知名度を得させてもらっている。皆さんご存知の通り、今の川島の活躍ぶりは本当にすごい。一方、僕が去年全国ネットの番組にどのくらい出たのか調べてみたら、たったの11本……(笑)。川島に負けないように、芸人としてもっと頑張ります」
2024年結成25年目を迎えた麒麟。たしかにコンビで活動する機会は減ったかもしれない。しかし、田村の言葉の隅々からは川島への尊敬の念、感謝の思いが溢れていた。
※4回目に続く