一生懸命働いているのに仕事で結果が出ない。人間関係に悩んでいる。他人とうまくコミュニケーションが取れない……。そんな人にこそ必要なのが「余白」なのだ! デザイナーであり、アーティスト、そして3つの会社を経営する社長でもある山﨑晴太郎氏が提唱する、人生が今よりももっとラクに、ポジティブに、前向きになる「余白思考」とは? 『余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術』(日経BP)の一部を引用、再編集してお届けする。
余白の「余」は余分ではなく、余裕の「余」である
「余白」という言葉を聞いたとき、字面を見たとき、どんなイメージが頭の中に広がるでしょうか。あるいは、なにか具体的な実像や佇まいが思い浮かぶでしょうか。
辞書で調べてみると、『新明解国語辞典 第八版』(三省堂)では、
“〈何かが書いて(印刷して)ある紙の〉何も書かれていない白い部分。スペース。〈行間は含まない〉”
もうひとつ、『大字泉』(小学館)では、
“字や絵などが書いてある紙面で、何も記されないで白く残っている部分”
どちらも「紙」の上に何かが書かれた部分に対比する形で、残された白い部分が余白だと説明しています。多くの人が「余白」と聞いたときに浮かべるものも、ほぼ同じイメージかもしれません。
これらの辞書的定義について異議をはさむつもりはまったくありませんが、この本の中でテーマとして語りたい「余白」は、もっと広く、もっとポジティブな意味を含んでいます。
「何かを書いたあとに残ってしまったスペース」ではなく、「書かれている何かを引き立たせるために、あえて余らせているスペース」や「あらゆるものが入る可能性にあふれた空間」「本当に大事なものを守るために、あえて余らせている時間や力」。
余白の「余」は余分ではなく、余裕の「余」であり、「余白」の先には、果てしなく続く時間/空間があります。
自分が自分らしく生きるために必要なものとしての余白。そんな「余白」の価値を、いろいろな方向から、多くの人に伝えたいと思っています。
それはなぜか? そのほうが、いろいろなことがうまく回り始めるし、生きることが絶対「ラク」に前向きになるし、たとえば仕事や人間関係が今よりもっと「楽しく」なるからです。
楽しく前向きに生きている人が増えれば、世界はきっと少しずついい未来に近づいていける。僕はそう信じています。
縁側や土間が果たす役割
自分自身の中にある大切な「コア(核)」の部分と外の世界の間にある自由なスペース。これが「余白」です。
そこでは何をしてもいい。中の延長として扱ってもいいし、外から来た人やものをいったん受け入れることもできる。そんな場所。
リアルなイメージで例えるなら、昔は多くの家にあった「縁側」「土間」のようなもの。いわゆる内と外の概念が曖昧になる、中間領域と呼ばれる部分です。
誰かの部屋でもないし、台所やお風呂のように決まった使用目的を持つ場所でもない。子どもが遊んでいることもあれば、猫が昼寝をしていることもある。近所のおじいちゃんが遊びにきて将棋を指していたり、家族でスイカを食べたり、座布団を敷いて昼寝をしたり。
内と外の概念も溶け、「何をしてもいい」ユニバーサルスペース。こういう場所が上手につくられている家は風通しもよくて、自由度が高い。楽しいことが入り込む余地がたくさんあります。
これは、縁側がまさに住宅の「余白」として、そこにあるおかげです。
なぜ今、余白が大事なのか?
「パーソナルスペース」という言葉があります。他者が自分に近づいて不快にならない限界範囲のことで、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車や混み合ったエレベーターなどではこれが侵されて、とてもイヤな気持ちになることがあります。
身体(物理)的にまったく余白がない状態というのは、耐え難いものです。それは、誰もが本能的な体感として知っています。だから、人は他者との間に身体的にも心理的にも、「不快ではない」適度なスペースをつくろうとします。
ただ、これには個人差があります。そのため、歩いているときに周囲の人が思いのほか近くにいて手や肩が触れ、身体的な距離感が気になったり、新しく知り合った人の発言で、心理的に「この人、ぐいぐい来るなあ」なんて思わず苦笑したりすることもあります。
しかし、少なくとも他者との間に一定のスペースが必要だということは、みんなわかっているでしょう。
それなのに、僕たちはつい身体的にも心理的にも、物事をいっぱいまで詰め込んでしまいます。そして、それに慣れていく。
満員電車に乗って感じていたはずの、「至近距離に人がいることの不愉快さ」も、平日の5日間、毎日満員電車に乗っていると、「これはしかたない。当たり前」と思うようになる……。
もともとはスペースを求めていたはずなのに、精神的に「しかたない」「当たり前」と妥協したことで、身体のパーソナルスペースも奪われてしまうのです。
コロナ禍での通勤では、ウイルスに対して心配や不安を抱えつつも、いつもより空いている電車内に「これだけは悪くないな」と思った人も、案外多かったのではないでしょうか。
たとえていえば、余白は子ども時代の「日曜日」です。何をしてもいい1日。決められた予定は何もない日。何をすることも否定されていない、可能性にあふれた1日です。「さあ、今日は何をして過ごそうか」というワクワク感を受け止めてくれるのが余白の存在です。
そろそろ、詰め込みすぎはやめて、余白を取り戻してみませんか?