一生懸命働いているのに仕事で結果が出ない。人間関係に悩んでいる。他人とうまくコミュニケーションが取れない……。そんな人にこそ必要なのが「余白」なのだ! デザイナーであり、アーティスト、そして3つの会社を経営する社長でもある山﨑晴太郎氏が提唱する、人生が今よりももっとラクに、ポジティブに、前向きになる「余白思考」とは? 『余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術』(日経BP)の一部を引用、再編集してお届けする。#1/#2/#3/#4
20回の「すみません」で、たいていのことは乗り越えられる
怒られたり、誰かから非難されたりするのがとにかく苦痛だという人がいます。実際に怒られたことが原因でメンタルを病む人も多いようです。
性格や気性は人それぞれなので、誰にでも適用できるものではないかもしれませんが、発想の転換で、怒られることへの恐怖や苦痛から逃れられる場合があります。
僕自身、編入した高校でまったく成績がふるわずにテストで赤点が続いていた頃は、始終、先生から怒られていました。職員室に呼びだされることもたびたびあって、決めていたのは「とにかく20回、すみませんを言おう」ということでした。
先生が何を問題視していて、何について怒っているかは、実は聞いていなかった。いかにも反省していますというような顔をして、どのタイミングで「すみません」を言おうかとそればかり考えていました。
結果的に、20回まで数えたことは一度もありません。その前に終わって解放されました。
当時は、そういう自分の対処の仕方を特に言語化はしていなかったのですが、今思うと、これも余白思考だなと思います。
教師と自分の間に「すみません」という言葉を繰り返す、という自ら決めたルールで余白をつくりだそうとしていました。教師側に完全に自分を持っていかれないように、学校側の価値観に取り込まれないようにするための、高校生ながらの作戦だったのだなと思います。
結局、怒られたとしても、責められたとしても、そのすべてを真正面から受け止める必要はないんじゃないかということです。
怒っている相手と怒られている自分の間に、余白をつくる。
そうすることで、自分にとって一番大切な部分は守ることができます。一番大切な部分というのは、たとえば「自分が本当にやりたいこと」や「本当は自分はこう思う」という考え方です。
もしも明日の朝起きて、急に会社に行きたくなくなったら、行かなくても大丈夫。少しくらいルールを守らないことがあってもいい。そんなことはたいしたことではありません。
もちろん、相手からは怒られるでしょう。それは仕方ない。だけど、怒られたからといって自分を見損なう必要はないし、怒られることを恐れて自分の気持ちをごまかすのはもったいないと思います。
どんな修羅場も「すみませんを20回言えば通り過ぎる」、僕は本気でそう思っています。
不完全でもいいじゃないか! と開き直ることも大切
学生時代、アメリカに1年間留学していたことがあるのですが、正直今でも英語にまったく自信がありません。
以前、英語力を上げようと思い、少しだけ英会話学校に通ったことがあります。
最初に英語力を確認されたのですが、スタート時には「すごくしゃべれますね」と称賛されたのに、結局はだいぶ下のクラスにセットされていました。
つまり僕の英語は、文法もめちゃくちゃに、勢いで適当に元気よくしゃべっているだけ。最初に評価されたのは、自信満々でまくし立てていたからです。
でも、それでもいいんじゃないの? そう思います。
英語学習の中ではよくいわれることですが、多くの日本人は「正しくなければいけない」という感覚から逃れられないようで、「正しい文法でなければ」「発言がちゃんとしていなければ」話してはいけないくらいに思い込んでいます。
でも、そんなの気にしなくていい。ある意味適当にしゃべればいい。気持ちや雰囲気が伝われば、コミュニケーションとしてまずは及第点だと思います。
曖昧なままで、つまり未完成の状態で出力してしまえる能力。これはとても大事なことです。世の中の多くの人は、これがなかなかできません。
「いいもの」「正しいもの」しか世に出してはいけないとつい考えてしまっていて、練習して上手にできるようになってから食べてもらおうとか、完全にマスターしてから聞いてもらおうという態度が主流になっています。
「練習してから披露する」という文化は根強くて、幼稚園児でさえもお遊戯会に向けて猛練習を重ねていたりします。
これは逆から見ると、「不完全さや曖昧さを許さない」という態度に結びつくので、完璧じゃないものを否定するということにつながっていきます。
自分が曖昧なものを出力していれば、相手の不完全さも受け止められます。「お互い様」という感覚で曖昧さを許容しあったほうが、今よりずっと生きやすくなるはずです。