ART

2025.07.15

終戦80年、杉本博司が書き上げた“戦争の記憶”が能舞台に

現代美術作家の杉本博司はある偶然から、A級戦犯である板垣征四郎の辞世の漢詩を入手した。満州国建国の理想に燃え、それを果たせなかった彼の夢見た世界とは。太平洋戦争終結から80年目の夏。実際にあの戦争を体験し、それを語り継げる人はどんどん少なくなっている。今こそ能にして語り継ぐべきだと杉本は考えた。源平の合戦が琵琶法師によって語り継がれたときのように。

左:杉本博司、右:近衞忠大
左:杉本博司、右:近衞忠大

きっかけは、A級戦犯が拘置所で詠んだ漢詩

現代美術作家、杉本博司。代表的な作品としては、画面の上半分が空、下半分が海、以上、という構図で世界中の海をとらえた写真「海景」、あるいは映画1本を上映する間、カメラのシャッターを開き、投影される光によりスクリーンは白光し、照り返しで映画館のディテールを描き上げる「劇場」。

さらには建築作品も多く、自ら「遺作」と位置付ける《江之浦測候所》は冬至の日の出の光を直線で入射させるトンネルや100メートル長のギャラリーを独自に設計し、石舞台やガラス舞台、茶室も備える、まさに杉本の理想を具現化した施設である。近年、ここに春日神を招聘するための神社を建立した。

古美術、古典芸能などにも造詣の深い杉本はこれまで、人形浄瑠璃の演出やプロデュースを手がけ、国内外で上演してきた。そして、今度は新作能の原作を担当し、いよいよ世に送る。第二次世界大戦終結から80年を期して、2025年8月15日に上演されるのは「敗戦八十周年記念公演 杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』」である。会場は今年3月に新装となった十四世喜多六平太記念能楽堂(喜多能楽堂。東京都品川区)。

板垣征四郎 漢詩コピー © 小田原文化財団
板垣征四郎 漢詩コピー © 小田原文化財団

杉本はある展覧会のための調査を進める中で、東京裁判のA級戦犯の面々が、おそらく昭和23年春、収監中の巣鴨拘置所で詠んだ漢詩が掲載された冊子を入手した。それを取りまとめ、自らも大戦に至る経緯や心情を記した板垣征四郎(陸軍大将)の漢詩は特に杉本を強く惹きつけた。この資料は日米関係史に深い関心を持ち続けてきた杉本にも初見だった。

板垣は石原莞爾とともに満洲国建国に深く関わった人物で、杉本が以前から関心を寄せていた一人だった。そこには、板垣が刑死を前にして、国を想う心情、理想の国家とは何か、満州国建国への熱情が語られていたのだった。それを読み、杉本はその詩をもとにした能を書くことを発想した。

五族皆協和 鼓腹楽土謳
ごぞくみなきょうわし こふくらくどをうたう
(満族・漢族・蒙古族・朝鮮族・日本人の五つの民族はみな協和し平和な楽土を喜んだ)

板垣の漢詩の一片にはこうある。彼が夢見たのは彼の地に民族の境を越えた新しい国家を設立することだった。しかし、その夢は軍部の暴走や板垣の処遇により、方向を見失う。さらには開戦直前に提示されたハルノート(正式名称:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)によって破られることになる。それは1941年11月にアメリカのコーデル・ハル国務長官が日本に提示した外交文書。主な内容として日本の中国およびフランス領インドシナからの全面撤退などを要求していた。

令和の大改修を完了し、新装開場となった喜多能楽堂
令和の大改修を完了し、新装開場となった喜多能楽堂

能は室町時代に成立した日本の代表的な歌舞劇。亡くなった人が霊として現れ、僧に過去の話をしていく。生前のことを僧に話すことで、霊の魂が鎮まる。そもそも、演劇は古代から、死者の霊を慰めたり、神への奉納として執り行われてきたものであったことを考えればその形式については受容しやすいだろう。

杉本は『平家物語』を例にとって、説明してくれている。平家滅亡から80年ほど経った頃に盲目の琵琶法師によって、物語が語られるようになったこと。「平曲」と言われるその物語はのちに、能となり、浄瑠璃となり、歌舞伎にも変調して、この国における芸能の原点となったこと。考えてみれば、第二次大戦終結から80年を迎え、あの敗戦を生身で知る人はほとんどいなくなった今こそ、整理し、能にしておくべきと考えたこと。杉本は切にその使命を感じたということだ。

右:杉本の原作を能本に整えた能楽師の川口晃平(能楽シテ方観世流)、左:演出を担当する大島輝久(能楽シテ方喜多流)
右:杉本の原作を能本に整えた能楽師の川口晃平(能楽シテ方観世流)、左:演出を手掛け、自らシテ方もつとめる大島輝久(能楽シテ方喜多流)

『巣鴨塚 ハルの便り』は杉本によって能として書き上げられ、文芸誌『新潮』2013年1月号で発表された。2015年にはその原稿をもとに、朗読能『春の便り〜能「巣鴨塚」より〜』が上演された。このたび、能楽師の川口晃平が古典の形式に則り、能の詞章の形に編集し、敗戦から80年を迎えるまさに今年の8月15日、本格的な能形式に整えられた公演が実現することになった。

杉本と能といえば、2002年、香川県直島にベネッセアートサイト直島が企画した家プロジェクトの一つとして、護王神社の再建を手がけたことがあったが、その完成を祝した式で能「屋島」を奉納したことがあった。源平の合戦が行われた屋島の海を眺める高台の神社に設置された能舞台。源義経の霊が登場し、当時の戦の様子を語る。

2015年に上演された朗読能『春の便り~能「巣鴨塚」より~』。出演は杉本博司と余貴美子
2015年に上演された朗読能『春の便り~能「巣鴨塚」より~』。出演は杉本博司と余貴美子。

武将や戦をテーマにした曲は「修羅物」と呼ばれる。時代を超えて、20世紀半ば、昭和のあの戦が杉本の原作によって、修羅能として描かれるのだ。杉本は戦後まもない1948年に東京に生まれた。そのときはまだ連合国軍占領下の日本であった。日本の主権が回復するのはいわゆるサンフランシスコ平和条約発効の1952年を待たなければならない。

戦争そのものも、戦後の混乱も原体験としては知らなかったが、のちに大学卒業とともにアメリカに渡った杉本にとって、日本がなぜ大国アメリカを相手に戦争をしたのかは正しく知るべきテーマであったし、アメリカ人を相手にどう説明するかも常々考えていたことだったという。

「敗戦八十周年記念公演 杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』」のプレス懇談会が2025年7月2日、荻外荘(東京都杉並区。2016年に国の史跡に指定)で行われ、当日のプログラムの中では喜多能楽堂を運営する公益財団法人十四世六平太記念財団理事長の近衞忠大と杉本博司のトークイベントもあった。

荻外荘は東京帝国大学医学部教授であり、大正天皇の侍医頭も務めた医学者・入澤達吉の別邸「楓荻荘」として、入澤の義弟だった建築家・伊東忠太の設計により、1927年に建てられた。その10年後、政治家・近衞文麿に譲渡され、近衞の後見人であった元老・西園寺公望によって「荻外荘」と名付けられ、戦前の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所である。A級戦犯となった近衞文麿は1945年12月、ここの書斎で自決している。

古い蓄音機に太平洋戦争の戦況を告げるNHKラジオニュースの実況録音レコードをかける杉本
古い蓄音機に太平洋戦争の戦況を告げるNHKラジオニュースの実況録音レコードをかける杉本。

近衞忠大の父、近衞忠煇は細川家に生まれ、近衞家の養子になった人物だが、その縁の場所である「荻外荘」でのトークイベント。杉本が、太平洋戦争当時のラジオニュースを収録したレコードを古い蓄音機でかけ、忠大が幼少期の建物での記憶を語るなど、趣向を凝らしたものとなった。

この国の歴史は能になることで語り継がれる。今こそ、あの戦争を能に整えることこそ、あの戦争の記憶をつないでいくことだと語る杉本。戦争をめぐるニュースが日々を駆け巡っている現在、あの80年前の敗戦の夏に立ち帰り、平和への想いを強くしたいということだろう。

敗戦八十周年記念公演 杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』チラシ表面 
敗戦八十周年記念公演 杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』チラシ表面 © 小田原文化財団

日時: 2025年8月15日(金)18:00開演
会場: 十四世喜多六平太記念能楽堂(東京)
主催: 公益財団法人十四世六平太記念財団、公益財団法人小田原文化財団
原作: 杉本博司『能 巣鴨塚(修羅能)』(「新潮」2013年1月号掲載)
能本: 川口晃平(能楽シテ方観世流)
演出: 大島輝久(能楽シテ方喜多流)
作調: 亀井広忠(能楽大鼓方葛野流)

Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。

TEXT=鈴木芳雄

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