美術館や画集で世界の名画を漫然と眺めるだけでなく、そこに出てくる人や犬や物が自分の身近にやって来てたらどんな感じ? そんなことあるわけないじゃん、ないんだけど、絵だったらそれができるよってやってくれてるのが画家の岩岡純子。そんなシリーズの作品集が出版されたので紹介しておく。

名画を日常の半径数十メートル以内に引き寄せる
名画から人物だけが飛び出してきて、なんだか我々の身近な場所に来てしまっている。たとえばこの、フェルメール作品の中でも有名な『牛乳を注ぐ女』で描かれた女性がファミレスのデニーズでメニューを差し出している。「デニーズへ、ようこそ」。
画面の左側は画集から人物が切り抜かれたページ。ここにいた人が時空を超えて、ファミレスのウェイトレスになっているというわけね。背景、そして人物の服の色や細部を補うのは油絵具、鉛筆、色鉛筆。作品によってはアクリル絵具も。
ポーズはまさにあの『牛乳を注ぐ女』だが、どんな感じで手が加えられたか。元になった絵を見てみよう。

アムステルダム国立美術館、アムステルダム
なるほど、服の色は変えてあるけど、この人だ。彼女は牛乳プディングを作っているところと言われる絵だが、その牛乳壺の代わりにメニューを持って、客に見せているけれど自然な感じ。背景はデニーズの店内がリアルに描かれている。
こんな作品を作っている画家の岩岡純子さん。僕はこれまで個展やグループ展で見てきたけれど、このシリーズが1冊の作品集『TIME LEAP』にまとまった。

表紙の作品は《ミレイ作『方舟への鳩の帰還』に描かれた鳩と人が、上野公園で鳩に囲まれる》2021年
ジョン・エヴァレット・ミレイのこの絵。『旧約聖書』「創世記」の一コマ、「ノアの方舟」のくだりである。もとの絵に描かれた左側の少女は右手に鳩、左手にオリーブの葉を持っている。方舟から放した鳩がこの葉を咥えて帰って来たので、大洪水の水が引いたことを知るという場面。右側の少女は鳩に口づけをしている。災難のあとの希望と安堵の絵だ。岩岡の絵ではその左側の少女はなぜか上野公園にワープしていて、他の鳩も寄ってきている。「創世記」から日常への落差。
美術館にあったり、画集や教科書に載ってそうな絵を日常の、しかも作者の生活しているところの半径数十メートル以内に引き寄せるマジック。その引き寄せ方にもウィットがあるし、招来した場所がまた、公園だったり、ファミレスだったり、リサイクルショップだったり、なんというか、慎ましやかというか、お馴染み過ぎるというか、そういうところだからホッとするというか、絵の中の人物に親しみを持てるというか、もしかしたら絵の中にいた人は自分なのかもしれないと思ってしまう。
岩岡は1982年千葉県生まれ。2009年、東京藝術大学大学院美術研究科修了。近年の主な展覧会に個展「中之島を、歩くひと」(YOD Gallery、2022 年)、「美人画展」(3331 Gallery、2013 年) 等。近年の主なグループ展に「A Room of One’s Own」(Sansiao Gallery HK、2025 年)、「NewEden」(tagboat、2024 年)等。WATOWA ART AWARD 2021、シェル美術賞2020 、15th TAGBOAT AWARD に入選。
いくつか作品を見ていこう。

名画の中に犬たちを見つけて、それを日常、出かけている公園に放したようだ。これはなかなかの大作。公園はもちろん実在の場所で、どうやら多摩中央公園らしい。こういうふうに絵を組み合わせ、こんな額縁を作るのは博物画の世界では見かけるもの。
画集の中からいい感じの犬、それもサイズ的にちょうどいいコを集めるのは大変だっただろう。サイズもそうだが、それぞれの犬の光のあたり方も違うわけでそれを1枚の絵に収める画力はかなりのレベルが要求される。


フランシスコ・デ・ゴヤが描いたのは、マドリード市民の暴動が鎮圧され、400人以上の逮捕された反乱者がフランス軍銃殺執行隊によって銃殺刑に処された悲惨な場面だが、同じ人物が岩岡の絵では久しぶりに恋人に再会する歓喜の絵になっている。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが描いたのは、身なりの良い青年が4人の女に囲まれ、占いに気を取られているうちに、お金を掏られたり、金の鎖を切られようとしているところ。その占い師役の女が現代に来てしまうと、ありふれた自販機を前に使い方がわからず困っているのか、それとも買うものを迷っているのかというところ。女の服がオレンジ色なのに対して、自販機が補色の緑色。その対比により画面が引き締まっている。

2022年、国立新美術館(東京・六本木)で開催された「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」にルーカス・クラーナハの『パリスの審判』がやってきて、それに取材した作品。ちなみに前述のラ・トゥールの『女占い師』もこの展覧会にきているが、作品は展覧会以前につくられている。
『パリスの審判』はギリシャ神話からのストーリーで、3人の女神が、美男といわれたパリスの前に並び美を競い合うシーン。多くの画家が好んで描いた主題の1つだが、クラーナハにとっても人気の画題だった。この絵では一人の女性が絵から飛び出し、ワンピースを着て、自分がいた絵を鑑賞している。タイトルもいい。「自分とそっくりな人」ってそれはそうでしょ。

「絵の中の人物が…」と書いてきたが、人物、犬以外もあった。フランシスコ・デ・スルバランの描いた器(上段の絵)の中から1つが飛び出して、なぜかリサイクルショップで値札を付けられて並んでいる(下段の絵)。たぶん安いんだね。そんなわけないけど、ここにあると、もしかして樹脂製だった?って感じてしまう。
絵の中に描かれた人、犬、物が時間と空間を超えて、別の絵に入って来るのはなんだか、楽しいし、新しい発見をさせてもらったりする。岩岡にはタイムマシンパイロットとして、今後も作品を生み出して、驚かしてもらいたい。
英国の詩人、T.S.エリオットの言葉を引いておこう。
未熟な詩人はまねるが、熟練した詩人は盗む。
無能な詩人は盗んだものを壊すが、有能な詩人はより優れたもの、少なくとも違うものへと変える。
つまるところ、有能な詩人は、盗んだものを盗む前とはまったく異なる、独特な雰囲気に変えてしまうのだ

掲載の作品50点ほどが収められた作品集『TIME LEAP』の出版を記念して、森岡書店(東京・銀座)で個展と書籍の販売がある。
岩岡純子『TIME LEAP』刊行記念展
会期:2025年7月8日〜20日
時間:13:00〜19:00
休廊日:月曜
場所:森岡書店(東京都中央区銀座1-28-15 鈴木ビル1階)
また、森岡書店近くの会場でトークイベントも予定。
トークイベント『時をかける名画』
登壇者:岩岡純子(美術家)、鈴木芳雄(編集者・美術ジャーナリスト)
日時:2025年7月12日
時間:14:00〜15:30(13:30開場)
入場料:¥1,000
会場:東京都中小企業会館 9階講堂(東京都中央区銀座2-10-18)
主催:森岡書店
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。