2022年北京オリンピックで女子シングル5位、団体銀メダルを獲得したフィギュアスケーター・樋口新葉さん。インタビュー第2回では、22年間の競技生活を終えた今、現役時代のプレッシャーやライバルとの関係、引退した今だからこそ楽しんでいる新たな挑戦について聞いた。

闘争心が強くて、他の選手のいいところを受け入れることができなかった
2018年世界選手権銀メダル、2022年北京オリンピックでは女子シングル4位入賞。豪快なジャンプと豊かな表現力を武器に、戦い続けてきた樋口新葉さん。2026年3月、22年間の競技生活に幕を下ろした今も、プロスケーターとしてアイスショーの出演や後進の指導に取り組んでいる。
その競技人生を振り返るなかで、意外な言葉が返ってきた。
「私はたぶん、ほかのスケーターよりも人の演技を見なかったと思います」
トップ選手であればあるほど、ライバルの演技を徹底的に研究していると思われがちだが、樋口さんは勝つために、あえて他の選手の演技とは距離を置いてきたという。
「ジャンプの軸の位置とか、回転の締め方とか、そういう技術的なことはもちろん参考にはしていました。でも演技そのものは、あまり見ないようにしていたんです。そもそもフィギュアスケートって『演技』なので、みんな違って、それぞれにいいところがある。比べるのがなかなか難しい競技です。
なのにそこに点数がつく。もちろん『ここで足を伸ばすと加点』などといった規定はあります。けれど、それ以外のところで『なぜ同じジャンプで点数が違うのか』と考えて、『なるべく点数が高い選手のフォームを真似しよう』となりがちなんですよね。でもそうなってしまうと、みんな同じ演技になってしまう。私はそれを避けたかった。自分の演技がしたかったんです」
そう振り返る樋口さん。けれどその後、静かにこうも言う。
「でも単純に、私は闘争心が強くて、他の選手のいいところを受け入れることができなかったのかもしれません……」
その樋口さんがミラノ・コルティナ五輪では解説を経験した。選手の演技をじっくりと見て、それを言葉で説明するこの役割は、それまで、あえて避けてきたことそのものだった。
「客観的にフィギュアスケートを見るのはこれ(ミラノ・コルティナ五輪)が初めてでした。自分自身の演技からは離れ、冷静に選手の演技そのものを見る。そうすると、ひとりひとりが魅力的だなと、改めて気がついたんです。ああ、フィギュアスケートって純粋に面白いなって。
だからこそ選手の魅力や努力をしっかり言語化できるようにならないといけない、そういう新たなプレッシャーも感じました。今は大学院に通って、しっかり言語化できるよう学びに集中しているところです」

「帰りたい。逃げたい」北京オリンピックで感じたプレッシャー
選手を退いたことで、改めて競技そのものの魅力と向き合えるようになったという樋口さん。現役時代は、その「負けたくない」という強い「闘争心」ゆえ、本番前に多大なプレッシャーと緊張に苛まれた。
「毎試合、最初のポーズを取る瞬間に緊張しすぎて『帰りたい!』って思っていました。氷上に降りた瞬間ホームシックになるんです(笑)。一番そう思ったのが北京オリンピックの時でした。『帰りたい。逃げたい』って。怖くて身体が震えていました。でも一つ目のジャンプを跳んでしまえば、次のジャンプのことを考えなきゃいけないので、そこからは大丈夫なんです。『この姿勢だけは守ろう』とか、自分のなかで決めたことだけを信じて滑るようにしていると、最初に感じていた緊張とか恐怖が消えていきました」
世界最高峰の舞台に立つ選手でさえ、逃げ出したくなるほどのプレッシャーを感じる。緊張と向き合うことはつまり、逃げ出すことができないと悟り、その恐怖と戦うことなのかもしれない。
「普通、練習でできないことは本番では絶対できません。なのにたまに私は奇跡を起こしてしまって、本番でいきなりできるようになることもありました。でも逆に練習でどれだけ跳べても本番で飛べない時もある。だから結局もう、考えたって無駄、思い切り滑るしかないんですよね」
競技生活を終えた今も、その緊張がなくなったわけではない。むしろプロスケーターとして滑るアイスショーもまた緊張が大きいのだという。
「試合は自分のために滑ります。でもショーはお客さんのために滑るもの。ショーで失敗してしまうと作品そのものを壊してしまい、お客さんを失望させてしまう。試合では得点のために難しいジャンプにも挑戦しますが、絶対に失敗が許されないショーでは見栄えを優先してリスクを取らず構成を考えることもあります。
この『絶対に成功させる』というプレッシャーは競技以上かもしれません。自分のためより、人のため。そっちのほうが緊張するんです」

2001年東京都生まれ。5歳からフィギュアスケートを始め、2018年世界選手権銀メダル、2022年北京オリンピック女子シングル4位、団体銀メダルなど日本女子フィギュア界を代表する選手として活躍。2026年3月に22年間の競技生活を終え、現在はプロスケーターとして活動する一方、大学院でスポーツ心理学を学び、後進の育成にも取り組む。
たぶん、人と比べることってそんなに悪いことばかりではない。
現役時代、他の選手の演技を「見ないようにしていた」樋口さんだったが、それでもライバルの存在は大切だったという。フィギュアスケートの年少カテゴリーであるノービス時代、つまり小学生の時から一緒だった坂本花織選手とも、長年いいライバル関係を築いてきた。
「かおちゃん含め、周りの選手はずっと勝たないといけない相手として意識していたし、一緒の演技をしたらつまらない、もっと違うことをしないといけないっていう目で見ていました。
逆に自分がしんどい時は『きっとみんなもしんどいはず』って思えて心の支えにもなっていましたね。かおちゃんと仲良く話すようになったのは18歳くらいからと、長年知っているわりには遅いんです。今は、お互い忙しくてあまり会えていないけど、BeRealでは繋がっているので、毎日生存確認はしています(笑)」
お互いに競技を引退した今、そのライバル関係はかたちを変えるかと思いきや、そうではないという。
「プロの世界では、アイスショーの出演枠は限られていますし、形は変わっても、ずっと競争は続いていくんだと思います。そういう関係が私にとっては刺激だし、心地よい。
今、私は子どもたちにスケートを教える機会もあるのですが、競争させるとすごく頑張るんですよ。スポーツに限っていえばたぶん、人と比べることってそんなに悪いことばかりではない。誰かがいるから成長できる部分はあると思っています」
原宿のカフェでスーパーアルバイター!?
プロスケーターとして歩み始めた樋口さんが今、新たな興味を抱いているのが氷上以外での「表現」の世界だ。今回のGOETHEの撮影のように被写体としてカメラの前に立つことも、その一つだった。
「スケートは動いて表現します。『もっと悲しそうに』『もっと楽しそうに』と感情をイメージしながら動くんです。けれど写真は止まった世界のなかで、一瞬の空気を伝える。しかも『悲しいのか、楽しいのか』も自分で決めて、自分自身からその空気を発していかないといけません。これまでの表現とはまったく違って、難しいけど面白いなって思うんです」

さらに今、競技生活では経験できなかった「普通の社会」に触れる機会も増えている。樋口さんは現役時代からアルバイトを続けており、現在は大学院の勉強とプロスケーターとしての活動の合間を縫って原宿のカフェでアルバイトもしているのだという。
「これまでずっとスケート一筋だったから、社会経験をしてみたかったんです。オーナーさん以外は私がスケートをやっていたことを知らないので、みんな普通の大学院生として接してくれる。その環境がすごく新鮮で楽しいですね」
そんな樋口さんは、店舗で"スーパーアルバイター"として頼られる存在だという。
「スケートって、コーチだけじゃなくて、トレーナーや振付師、スタッフの方など、本当にたくさんの人に支えてもらう競技なんです。だから自然と『今、この人は何を必要としているんだろう』と考える癖がつきました。競技を通して身についたことが、アルバイトでも役立っているのかな。お店では忙しい時にどこが大変そうかを見て、自分から動くようにしています。なので『ヘルプに入ってほしい』と言われることも多いんですよ(笑)」
競技時代に培われた強さとしなやかさを武器に、樋口さんは舞台を変えて、新たな挑戦を重ねていく。
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