PERSON

2026.09.21

北京五輪銀・樋口新葉はなぜ、22年間のフィギュア人生を終えて大学院へ行ったのか

22年間の競技生活を終えたフィギュアスケーターの樋口新葉さんが、引退後に選んだのは大学院への進学だった。なぜ、スポーツ心理学を学ぶのか。その背景にある思いを聞いた。インタビュー前編。

北京五輪銀メダリスト・樋口新葉、22年間のフィギュア人生を終えて大学院へ進んだ理由

みんなが当たり前に経験しているはずのことを私はなにも知らない

2026年3月、22年間続けた競技生活に区切りをつけたフィギュアスケーターの樋口新葉さん。2018年世界選手権銀メダル、2022年北京オリンピック5位入賞。日本を代表するフィギュアスケーターとして第一線を走り続けた樋口新葉さんが、競技引退後、新たな舞台に選んだのは大学院だった。

現在、樋口さんはプロスケーターとしてアイスショーや振り付け、後進の指導を続けながら、この春から大学院に進学し、スポーツ心理学を学んでいる。

「あの時の自分の状態はこうだったのか、など、自分の競技経験を答え合わせするような、そんな学びがたくさんあります。知識が身につくことで、人に教える際にも役立っているなと実感している最中です」

大学院進学を考え始めたのは現役最後の1〜2年だという。シーズンを戦いながら教授と連絡を取り、研究計画を練り、受験準備を進めてきた。競技と受験を並行する生活は決して楽ではなかったが、それでもやり切れたのには、ある思いがあった。

「私は幼い頃からフィギュアスケート1本で生きてきました。逆に言えば、それ以外のことはほとんどしてこなかったんです。勉強や、放課後に友だちととりとめのない話をしたり、みんなが当たり前に経験しているはずのことを私はなにも知らない。それがだんだんと自分のなかでコンプレックスのようなものになっていたんです。

だからまずは、普通にちゃんと勉強したかった。そして、せっかくだから自分がやってきたことを活かせたらいいと、スポーツ心理学を学ぶことを決めたんです」

フィギュアスケーターの樋口新葉さん
樋口新葉/Wakaba Higuchi
2001年東京都生まれ。5歳からフィギュアスケートを始め、2018年世界選手権銀メダル、2022年北京オリンピック女子シングル4位、団体銀メダルなど日本女子フィギュア界を代表する選手として活躍。2026年3月に22年間の競技生活を終え、現在はプロスケーターとして活動する一方、大学院でスポーツ心理学を学び、後進の育成にも取り組む。

選手一人ひとりに合った指導者との関わり方がある。その違いを言語化したい

コーチやスタッフ、自分の戦績をよく知る記者。これまで常に“フィギュアスケート選手・樋口新葉”をとおして人と関わってきた。しかし大学院では、樋口さんの選手時代のことを知らない人も当然いる。そのなかで自身の競技人生を教材のように客観視し、他の学生と議論を重ねることが新鮮で面白いという。

「スケート以外の競技の方とこれまで関わることもなかったので、さまざまなスポーツ経験者が集まり『この競技の場合はこうだった』と話すことで、競技によっていろんな傾向、考え方があるんだなと学んでいます。

学生のなかにはスポーツ経験のない人もいますし、そういう人とも『はじめまして』で知り合っていきます。これまでは常に『選手』として見られていたので、そういう純粋な初対面がすごく新鮮で、フラットに誰とでも話せることがすごく楽しいですね」

フィギュアスケーターの樋口新葉さん

現在の研究テーマは、「コーチと選手の関係性がパフォーマンスにどう影響するか」。さまざまなスポーツにおいて選手とコーチ双方へのアンケートやインタビューをとおして、より良い指導法を探ろうとしている。そしてこのテーマはもちろん、自身の経験が色濃く反映されている。

 「私のコーチは、あれをやりなさい、これを練習しなさい、と細かく言うのではなくて、『どうすればいいか自分で考えなさい』というタイプでした。なので、『ここがこうだと思うのですが、どうすればいいですか』と具体的に聞くと、やっと教えてくれる。自分を客観的に見て、そして自分で考える。そういう力をつけてくれた指導法だと思っています。

でも、もしかしたらそれは私に対してだけで、他の人には他の指導法を用意しているのかもしれない。指導って本当に人ぞれぞれで、一概に厳しい指導がいいとも言えないし、優しいだけでも違う。選手一人ひとりに合った関わり方があるはず。その違いをもっと言語化できたらと思っています」

フィギュアスケーターの樋口新葉さん

引退後のキャリアを、選手自身が思い描ける仕組みを

フィギュアスケート選手の引退年齢は24歳前後と言われており、樋口さんも、25歳で新たなキャリアへと踏み出した。他のスポーツよりもピークが早く訪れ、引退も早いフィギュアスケートだからこそ、セカンドキャリアへ向けての課題もあると、樋口さんは感じている。

「たいていの選手は大学4年生で引退して就職します。その後もスケートを続けたいという人は、プロスケーターになったり、海外でショーに出たり、コーチになったり。いわゆるトップ選手だった人は、イバラの道とはいえそういう未来があるし、逆に選手時代結果を出せなかった人たちも『大学を出たらスケートをやめて社会人になろう』ときっぱり決心することができます。

でも難しいのは中間層の選手なんです。自分的にもまだできるかもしれない、もっと上にいけるかもしれない、そう思いながらでも一方で『もう限界かもしれない』と悩む。周りの人も『続けてみなよ』って言ってくれると思いますが、それって本当にその人のことを考えているのかなって。じゃあ結果がでなかった時、どうすればいいんだろうって、そういう疑問もあって。

フィギュアスケートにも、他のスポーツのように実業団のようなものがあって、会社員として選手を続けることができる、あるいは引退後その会社で働ける、というような受け口があると、いいなぁと思うんですよね」

フィギュアスケーターの樋口新葉

競技を続けるには多額の費用がかかる一方、引退後のキャリアを体系的に支援する仕組みは、まだ十分とは言えない。ゆえに、セカンドキャリアをうまく思い描けない選手も多いのだという。

「私の場合は北京オリンピックの時に大学3年生で、オリンピックに行けなかったらもうやめて就職をしようと決めていました。だから予選を戦いながら、OB訪問や面接とかにも行っていたんですよ。

けれど結果、北京オリンピックに行くことができて、であればすべて賭けるしかないと、またスケートに打ち込みました。その時にたどり着いた場所で、その先の未来を考えようと思ったんです。でも、引退のタイミングを決めるのは、人によってはやはり難しいものです。それまで人生をかけてしてきた挑戦を、もうしないという決意って、簡単にできることではないですから」

「あれ以上の演技はもうできない」最後の演技で燃え尽きた

樋口さん自身は、ミラノ・コルティナ冬季五輪の出場枠獲得が懸かった2025年世界選手権を経て、翌シーズンを競技人生最後のシーズンにすると決意した。

「ミラノ・コルティナ五輪を目指しましたが、全日本選手権では途中で五輪出場が厳しい状況となり、目標がなくなってしまった。それでも大会は続き、『なぜ頑張らないといけないのか』とモヤモヤしてしまったんです。その時にコーチと話し、『最後まで最高のパフォーマンスをする』ということに切り替えました」

全日本で最後の演技を終えて、氷上に寝転んだ姿が印象的だった。

「あの時は足が痛んで、2日前までジャンプも飛べなかったんです。でも最終日、どの練習よりも自分のなかでいい演技ができて、『なんとか耐え切った』という思いでした。『あれ以上の演技はもうできない、これで終わった』という気持ちで、寝転がりましたね」

この時、樋口新葉は確かに燃え尽きた。

けれど、すぐに立ち上がり、笑顔で氷上を去っていく。これからも選手たちが、その後の未来を描けるように。樋口さんは学びを重ねながら、未来を切り拓いていく。

フィギュアスケーターの樋口新葉

衣装クレジット:ブラウス¥49,500、スカート¥47,300(ともにエズミ/リ デザイン TEL:03-6447-1264) イヤリング¥24,200(セシル・エ・ジェンヌ/セシル・エ・ジェンヌ 青山店 TEL:080-9181-5183) ブレスレットにしたネックレス[シルバー]¥16,500、ブレスレットにしたネックレス[パール]¥22,000(ともにドーン/グリードインターナショナル info@greed.co.jp) ブーツ¥41,800(リミットティル2359/トーケン info@token-shoes.com) そのほかは私物

TEXT=安井桃子

PHOTOGRAPH=田中駿伍(MAETTICO)

STYLING=角田かおる

HAIR&MAKE-UP=面下伸一

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