好奇心が赴くまま、さまざまなことに挑戦してきた郷ひろみだが、なかには人生を賭して臨んだものもある。それが、芸能活動を休止して敢行したニューヨークへの音楽留学だ。その選択の理由とは。連載「郷辞苑#3」

1ヵ月離れて忘れられるなら、その程度の存在だったということ
僕は、1972年1月にNHK大河ドラマ『新・平家物語』で芸能界デビューした。同じ年の8月1日、『男の子女の子』という楽曲で歌手デビューを果たし、ありがたいことに、その年のレコード大賞新人賞と日本歌謡大賞新人賞をいただいた。翌年には『よろしく哀愁』がオリコンチャート1位となり、1976年には、『あなたがいたから、僕がいた』で、日本レコード大賞大衆賞を受賞するなど、素晴らしい楽曲に恵まれてヒット曲を連発し、ドラマや映画にも出演させていただいた。
おそらく周囲からは、順風満帆なアイドル人生を送っているように見えただろう。だが、僕自身は、自分の幸運を認識する一方で、「歌えない、踊れない」ことも自覚していた。デビューするまで、本格的に歌や踊りを習ったことはなかったのだから、当然といえば当然だ。このままでは、“郷ひろみの未来”はない。いつしか僕のなかに、そんな不安が芽生えてきた。そして、決めたのだ。アメリカで本格的に歌とダンスのレッスンを受けようと。
なぜアメリカだったのか。それは、19歳で初めてアメリカ西海岸を訪れた際、ダンスとボーカルトレーニングを受けた時の衝撃が大きかったからだ。
ダンスレッスンはビギナークラスだったにもかかわらず、当時の僕は他の生徒についていくのがやっとで、ボーカルトレーニングでも大きな壁にぶち当たった。わずか1ヵ月間のレッスンだったが、そこで僕は自分の力不足を思い知ると同時に、「アメリカは、歌手・郷ひろみを成長させてくれる場所だ」と直感したのだ。
もっともすぐさま音楽留学を実行に移せたわけではない。当時、日本の歌謡界は最盛期を迎えており、シングルは年4、5枚リリースするのが当たり前。歌番組はほぼ毎日放映されていて、しかも、ほとんどが生放送だった。加えて、雑誌の取材やドラマの撮影、コンサートなど、僕のスケジュールは文字通り分刻みで埋まっていた。現在は、アーティストが活動を休止するとか充電期間を取ることが珍しくないが、その頃の芸能界には、そんな発想はなかった気がする。
僕の行動は、よほど異例だったのだろう。20歳から、1ヵ月の休みをもらってアメリカへと向かう日、羽田空港には大勢の報道陣が詰めかけ、こんな言葉をかけられた。「1ヵ月間も日本にいなければ、忘れられてしまう。そんな不安にならないんですか?」。それに対する僕の答えは――、「1ヵ月間いないだけで忘れ去られるなら、僕はその程度の存在だったということです」。
仕事から離れることを許してくれた事務所、そして、僕のわがままを受け入れて待ってくれているファンに応えるためにも、この機会を1秒たりとも無駄にしたくはない。そんな気持ちで、滞在中は観光も遊びも一切せず、ダンスレッスン、ボーカルトレーニングにと、死に物狂いで励んだ。
その後も、毎年のように1ヵ月ほど、今度はニューヨークに留学し、30代前半はニューヨークに居を構えるまでに至った。
コツコツと続けてきた努力が、ようやく少し実を結んだと思えたのは、35歳になったあたりだろうか。「やっと、少し歌えるようになったかも」という感覚が訪れ、その後、バラード3部作の1作目となる『僕がどんなに君を好きか、君は知らない』という楽曲に出会うことになる。そして、1994年の『言えないよ』、1995年の『逢いたくてしかたない』と続いていく。
46歳で、無期限の活動休止とアメリカ行きを決行
やっと少し歌えるようになった――。その反面、まだ僕自身が納得できるレベルには到達していないという感覚もあった。自分に足りない、欠けている歌の技術を補えない限り、自分の将来はない。その思いは、自分の中で徐々に膨らんでいった。そしてそれは、ニューヨークで音楽を学ぶために芸能活動を無期限で休止し、自分が納得いくレベルに到達するまでは日本に帰らないという決意へとつながる。
とはいうものの、1999年に76枚目のシングルとなる『GOLDFINGER’99』が大ヒットした時は、正直、「この波にそのまま乗った方が良いのではないか」という迷いもよぎったし、この時期に日本を離れたら居場所がなくなるのではないかという恐怖心すら芽生えた。結果的に僕の思いは変わらなかった。仕事を調整するなど準備が整った2002年1月、ニューヨーク留学を決行した。いつの日か、「あの時、ニューヨークに行って勉強していたら」と後悔する気がしたし、この挑戦で得たものは、きっと60代の自分につながるはずだと考えたからだ。当時すでに46歳。実は、1999年の『GOLDFINGER’99』に出会う1年ほど前から、他人には言わずとも自分の中だけでニューヨーク行きは考えていたので、考え始めてから4年以上が経っていた。
ニューヨークでは、世界で3本の指に入ると言われるボーカルトレーナーのドクター・ライリー氏と出会い、徹底的にボーカルトレーニングを行った。週1回50分のレッスンを録音し、朝晩それを聞き返しながら自主練を続ける。最初は変化を実感できなかったが、半年が過ぎる頃、少しずつ正しい発声ができるようになってきた。とはいえ、長年しみついた発声や歌の癖は、そう簡単には直せない。覚えているが、僕のビブラートは深くて長かった。これからの歌手は浅くて短い。ドクター・ライリーに真っ向から否定された。新しい郷ひろみを見せたいんだよねぇ、とも。
もがきながらもレッスンを続けること3年、僕はようやく自分が求めていた声に出会うことができた。新生・郷ひろみのスタートを切るべく、2005年、50歳になる年の春、僕はニューヨークをあとにし、日本へと戻った。
浮き沈みの激しい芸能界にあって、活動を休止して音楽を学び直すことが、世間的に見て成功だったかどうかはわからない。ただ、僕自身は、居場所がなくなるかもしれないというリスクを冒してでも決行したことに、大きな意味があったと思っている。あの時、一歩を踏み出さずにいたら、「歌えない、踊れない」自分を見て見ぬふりをしたまま、日々をやり過ごしていたに違いない。となれば、「黄金の60代」を過ごすことはおろか、70代をこんなにもワクワクした気持ちで迎えることはできなかっただろう。
このまま50代、60代、そして70代と、自分をごまかして生きることもできたかもしれない。人には言わなくても、僕の胸の中のごまかしは瑣末なことだったのかもしれない。でも、自分をごまかしながら生きることは、ファンへの裏切りのような気がしたのだ。そして、自分自身を騙しながら生きていくことと思ったのだ。この先何十年と。
だから僕は旅立った。
人生には、リスクをとってでも挑戦すべき時がある。結果が吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知る……。だが、やらなかった後悔より、やった反省の方がずっといい。僕は、そう確信している。
郷ひろみ/Hiromi Go
1955年福岡県生まれ。1972年NHK大河ドラマ『新・平家物語』で芸能界デビューを果たし、同年8月に『男の子 女の子』で歌手としても活動を開始。以降、『よろしく哀愁』『お嫁サンバ』『言えないよ』『GOLDFINGER'99』など数多くのヒット曲を世に送り出し、日本を代表するポップシンガーとして活躍。デビュー日となる8月1日、70歳初シングル『I’m Neo G』&武道館全70曲完全収録ライブCDがリリース予定。著書に『ダディ』『黄金の60代』などがある。

