絵には詩的なものと、散文的なものがあることに気づいた。日高理恵子の絵を見たからだ。彼女は木の下にいて、上を見上げ、枝などとその向こうにある空を眺める。そして描く。それを40年以上してきたという。絵だけれど、ものを図解するわけでもなく、物語を絵説きしてくれるわけではない。ただ、木を描き、情趣や美しさを豊かに表現してくれる。それはつまり、詩が果たす役割そのものだ。

Installation view at Tomio Koyama Gallery Roppongi, Tokyo, 2026
©Rieko Hidaka, Photo by Kenji Takahashi
こんな本はなかなか作れない
樹木の正面というのはどこだろうか。子どもに木の絵を描かせれば、幹があって枝が伸びてさらに小枝が伸びてという様子を、つまり横から見た木を描くだろう。そこが木の正面なのだろうか。木と同じ地面に平行に立っている我々にはそう見えているというだけなのでは無いだろうか。
地球という大きな生命体(と仮定して)に木が生えている。そうすると木の正面は、我々が俯瞰して見るときのその姿こそ正面なのかもしれない。つまり地球の外から眺めるとか、空高く飛んだ鳥が見ている木の姿だ。幹とか枝とか小枝はその外側の青々と茂った葉を見せたい(太陽の光を浴びたい)木にとっては、実は舞台裏ということになるかもしれない。
画家・日高理恵子は木を見上げる絵をひたすら描き続けてきた。
「気がつけば40年以上、木を見上げ、その向こうにある空との関係、その見えかたを探り、そこでの感じかたを私自身の絵画として探ってきた」(日高理恵子『空間と、自然光と、絵と、』torch press)
日高はまさに木の舞台裏にいて、演出家のように木を見つめ続け、描いてきた。木の生命力が作る、予想できない形状を。そして自身が語るように、木の向こうに必ずある空を見続け、描いていた。あるいは、先の方にある空を見たくて、描きたくて、そのために木を見上げていたのだろうか。

Installation view at Tomio Koyama Gallery Kyobashi, Tokyo, 2026
©Rieko Hidaka, Photo by Kenji Takahashi
どの絵もタイポロジック(類型学的)に木とその先の空を描いている。その絵を次々に見ているといくつもの詩が思い浮かんでくる。詩人たちはたびたび空や宇宙を謳う。
「我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない」(萩原朔太郎「月に吠える」)
「さうか、天文学の、それは話か」(高村光太郎「天文学の話」)
「二十億年の孤独に僕は思わずくしゃみをした」(谷川俊太郎「二十億光年の孤独」)

Installation view at Tomio Koyama Gallery Roppongi, Tokyo, 2026
©Rieko Hidaka, Photo by Kenji Takahashi
日高理恵子は東京を拠点に制作活動を行う画家。1983年武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒業後、1985年同大学大学院造形研究科美術専攻修了。1995~1996年文化庁芸術家在外研修員としてドイツに滞在。2009~2026年多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻教授を務めた。作品は東京国立近代美術館、東京都現代美術館、国立国際美術館など多くの美術館に所蔵されている。
現在、小山登美夫ギャラリー六本木と小山登美夫ギャラリー京橋で展覧会が同時開催されている。会期は共に2026年11月8日(日)まで。

Installation view at Tomio Koyama Gallery Kyobashi, Tokyo, 2026
©Rieko Hidaka, Photo by Kenji Takahashi
昨年10月、多摩美術大学八王子キャンパスアートテークギャラリーに「退任展 日高理恵子 空間と、自然光と、絵と、」を見に行った。日高の絵がまとめて見られたこと、空間をうまく贅沢に使っていたこと、そして何より、自然光を取り入れた展示を見られたことは収穫だった。
その展示の記録であり、写真家の鈴木理策が出会った「時」を捉え、美術批評家の椹木野衣が論考を寄せた作品集が出来上がっていて、書籍としての設計もなかなか稀なもので、ちょっと感動した。書籍のアートディレクション・デザインは須山悠里。

表紙は銀色の紙に印刷しているようだ。表1はインスタレーションビュー、表4は作品のクロースアップ。背のかがり綴じした部分はクロスで覆われていて、そこにも書名や著者名などが活版で印刷されている。表紙の裏は紙の生成りのグレーだ。
椹木野衣の論考は2つの時期に分かれて書かれている。一つはこの「退任展 日高理恵子 空間と、自然光と、絵と、」が構想段階つまり、展覧会を見る前に書かれ、もう一つは展覧会が完成し、それを見て書かれた文章だ。後者はしばしば前者を引用する。ほかにも文章を書く上で椹木は実験をしている。段落の長さを樹木の大きさに、つまり大きな木も小さな木もあるように文章のかたまりの大小を意識的に作ったこと。さらに、「(日高の絵に)ならって語の隙間からその背後に広がる無限の空間を意識することができるように、あまり漢字を使いすぎることでこの空隙が狭まってしまわないように、いつもより少しだけ漢字の量を減らして語句をひらがなに変えた」とのこと。文章を文字の集積として見たときのかたまりの大きさ、密度を考慮したり、紙の上の文字の黒いインクがのったところは日高の絵でいえば枝や葉、白く残った部分は日高の絵でいえば空に相当させたのだという。
そしてその2つの論考は写真を印刷するための光沢と発色性を高めた紙とは別の書籍や雑誌に文字を印刷するときの紙を使っていて、この作品集の中でその文章のページがときどき定期的にやってくる。それは、写真8ページ分を印刷してそれを畳んで1折りとするのだが、その1折りに一枚ずつ文章を印刷した紙を貼り、それを最終的に重ねて製本するのでこういう構成になる。
ページを繰るときの指先の感覚まで考えられているわけだ。写真が印刷されているツルツルの紙と文章が印刷されているザラザラの紙。本を読むとき働くのは視覚だけではない。触覚は重要な要素だ。触覚と言えば、7ページと8ページの間にトビラともいえるページがあって、著者名とタイトル、それは退任展と同じタイトル「日高理恵子 空間と、自然光と、絵と、」が和文、英文で書かれているが、この紙が表はツルツル、裏はザラザラの紙で、それはこの本が写真と文章を織り込んで複雑に設計された本であることを予感させる。
重要なのに最後になってしまったけれども、この退任展を鈴木理策のカメラが記録したことの意味も大きい。タイトルにあるように、この展示は自然光のもとで日高の絵を見ることを意図していて、だから時間によって、光によって絵の表情は変化する。それを捉え、連続するページの流れで見せてくれる。あるいは、作品に寄って、部分的に切り取っていたり、そうかと思うと、絵を撮っているのではなく、明らかに絵のある空間を撮っていたりする。そして、ピントやアオリを操作することで、見る者の視線を優しく誘導しているようだ。
あの展覧会を書籍で記録するならば、ということを考え、それをかなり理想的な形で実現できた1冊だと言っていい。こんな本はなかなか作れないものだ。
「日高理恵子」
会場1:小山登美夫ギャラリー六本木(東京都港区六本木6-5-24 complex665 2F)
会期:2026年9月26日(土) 〜11月8日(日)
時間:11:00〜19:00
休館日:日・月曜、祝日※最終日の11月8日(日)は開廊
会場2:小山登美夫ギャラリー京橋(東京都中央区京橋1-7-1 TODA BUILDING 3F)
会期:2026年9月26日(土) 〜11月8日(日)
時間:11:00〜19:00
休館日:日・月曜、祝日※最終日の11月8日(日)は開廊
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。







