名匠、ストラディヴァリ全盛期の作とされるヴァイオリン“デュランティ”。その世界的至宝を自らの人生をかけて演奏する千住真理子氏。そこには千住家に迎えるために奔走した兄の博氏と明氏の情熱があった。【特集 最幸の贅沢】

それは楽器というより、生命。兄妹で迎え入れた千住家の魂、1716年製ストラディヴァリウス
「1本の矢はたやすく折れる。でも、3本まとめると容易には折れない。君たちも、そうあってほしい」
工学博士で慶應義塾大学名誉教授だった千住鎮雄は生前、博氏、明氏、真理子氏の3人の子に手を携えて生きることを願った。この「三矢の訓え」は安芸の戦国武将、毛利元就が3人の息子に託したと伝えられる有名な訓戒だ。
現在、博氏は日本画家、明氏は作曲家、真理子氏はヴァイオリンのソリストとして、皆質の高い作品を生み続けている。その兄妹の絆のシンボルが、真理子氏が演奏している1716年製のストラディヴァリウス“デュランティ”。弦楽器の名匠、イタリアのアントニオ・ストラディヴァリの、心身と技術の黄金期とされる70代に作られた幻のヴァイオリンだ。
当時のローマ教皇クレメンス14世に献上された後、約200年間はフランスの貴族のデュランティ家、その後約80年間はスイスの富豪の館で大切に保管されていた。そのため演奏による劣化が見られず、全音域がしっかりと鳴る。
真理子氏がそれを手にしたのは2002年。当時で億の単位、今ではその何倍も価値が上がっているこの至宝は、どのように東アジアの国、日本の千住家にやってきたのか。そこには父、鎮雄の「三矢の訓え」があった。

妹の活躍があってこそふたりの兄の道が開けた
「今、私の目の前にこれまで会ったことのないレベルのストラディヴァリウスがあります。手に取って弾いてみませんか」
そのディーラーからの電話は突然だった。真理子氏は驚き、電話口で即断ったという。
「欲しくなったら、つらくなるだけだと思いました。手に届かない金額だとわかっていましたし、当時の私には湿度の高い日本で維持していく術もありません」
ディーラーは執拗で、次の日もその次の日も連絡をよこした。ただし他に、イタリア人、イギリス人、ドイツ人と、3人の候補者がいた。
「そのなかの誰かが購入すると思っていました。ところが、私に来てしまって」
ドイツ人で決まりかけたが、その演奏家が値切ったことで、取引は破断に。デュランティはヨーロッパから空路日本に上陸。真理子氏は横浜のフィリアホールを借りて音を鳴らした。
「J.S.バッハの無伴奏やチャイコフスキーのコンチェルトを演奏しました。最初の1音からぞくぞくして、楽器というよりも生命だと感じました。デュランティに、私は恋をしてしまったのです」
翌日も新宿のオペラシティ コンサートホールや東京芸術劇場などを短時間でレンタル。
「弾けば弾くほど思いはつのるばかり。でも、手に入れるにはハードルが高すぎます。別れなくてはいけないと思いました」

ヴァイオリニスト。1962年東京都生まれ。2歳3ヵ月よりヴァイオリンを始め、1973年に全日本学生音楽コンクール小学生の部門全国1位を受賞。12歳でNHK交響楽団と共演しプロデビュー。1979年に第26回パガニーニ国際コンクールに最年少で入賞。国内外で演奏活動を行う。
そんな局面を変えたのは次兄の明氏だった。
「演奏を聴いて身震いしました。それまでも真理子は上質の楽器を演奏していました。自宅を売却して買ったヴァイオリンもあったんですよ。そのどれよりもデュランティの高音域はきらびやか、低音域は野太かった」
ストラディヴァリウスであろうとなかろうと、デュランティは音楽家・千住真理子に必要なパートナー。明氏は確信した。すぐにニューヨークにいる兄、博氏にコンタクトを取り、ふたりは何としても手に入れるべく奔走する。
「真理子の音の力、スケール、努力を続けるマインドは音楽界では別格です。ソリストとして生きるべき特別な音楽家が自分にふさわしい楽器に出会えた。なんとしても弾かせたかった」

作曲家。1960年東京都生まれ。東京藝術大学大学院首席修了。作曲家・プロデューサーとしてグローバルに活躍。日本アカデミー賞優秀音楽賞4回受賞。近年の代表作に、大ヒットドラマ『VIVANT』がある。令和七年度文化庁長官特別表彰を受章。東京藝大客員教授。
博氏と明氏には、妹への特別な思いもあった。
「真理子なしで兄と僕の今の人生はありません。うちの父は学者。僕たちも学者か企業の研究職に進むのだろうと思っていました。そんな家庭で真理子は12歳で、世界で評価されました」
娘の姿を見た父親は、息子たちへ言った。
「専門の道を見つけて努力を重ねられるのなら、何になっても構わない」
ふたりにも自分が望む人生を選ぶ自由を提案したのだった。
「兄も僕も好きな道を見つけて目指してかまわない、と」
博氏はずっと両親に、建築家になりたいと伝えていた。それは数学者の息子としてギリギリ許される職業だと判断した、親への忖度だった。しかし、本心は画を描きたかった。
「僕は日本画家になりたい」
東京藝術大学の受験会場から親に電話をかけ人生の方向を転換。現在の日本画家への道を選ぶ。明氏は音楽の道へ進んだ。
「真理子と堂々と共演できる自分にならなくてはいけません。慶應大から藝大の作曲科へ移り、音楽を学び直しました」
博氏にも明氏にも、ヴァイオリンには特別な思いもある。
「実は兄も僕もヴァイオリンを弾いていました。ヴァイオリンは、クリエイターとしての兄妹の原点なんです。だからこそ、3人の魂を宿らせられます。デュランティがあれば兄は画を描け、僕は作曲ができる」
兄妹は持つものを手放し、どうにか必要な資金を工面してデュランティを手に入れた。

毎朝生卵を3つゴクリ。音楽のための身体になる
しかしデュランティを手にした当初、真理子氏はなかなか思い通りに弾きこなせなかった。
「デュランティは生命。その音は生々しい肉声です。私の意思通りに歌ってくれるまでに時間がかかりました。10時間も弾き続けてやっとイメージ通りに鳴ってくれたり、思い通りに演奏できたと感じた翌日、なぜか不機嫌だったり」
身も心も消耗し、点滴を打ち演奏した時期もある。
「“じゃじゃ馬ならし”といいますが、私の意思通りにデュランティを鳴らせるまでに10年かかりました。私はデュランティ仕様の身体になる、人生を捧げる覚悟を決めました」
ヴァイオリンの演奏は、弦、ボディ、演奏者の肉体、ホールのすべてを鳴らす。だから真理子氏はデュランティと一体化するために肉体改造を続けている。
「帰宅したらどんなに疲れていてもプールへ行き、そのあと自宅でまた演奏します。バランスよく筋肉をつけるために、毎日背泳ぎや左右両方で呼吸しながらのクロールで泳いでいます」
食生活もデュランティ仕様。
「自宅でも旅先でも毎朝生卵を3つ、ゴクリと飲んで、たんぱく質を摂ります。昼食は毎日たっぷりの野菜と少しのお肉。夜は必ず納豆を食べています」
会食の誘いは丁重に断る。地方公演の夜も、名物料理をがまんする。すべてはデュランティ仕様の身体を維持するため。
「デュランティは何百年も生き続けます。私のあと、誰とどのように音を奏でていくべきなのか。ふたりの兄と相談しています」

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