人間の限界に挑戦するアスリートたち。肉体と精神をギリギリまで戦い続けるからこそ見える世界がある。競技はもとより、その裏側で起こっている人生の一端に迫る不定期連載「心震えるアスリートの流儀」。
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一番のスランプは、小4〜小6だった
人は新たな挑戦に足を踏み入れるとき、積み重ねてきた過去が重荷となることがある。プロフィギュアスケーターの羽生結弦は輝かしい過去で埋め尽くされるが、それにとらわれることなく自らを更新し続けている。
勝負から表現の世界へフィールドを移しても、スケートへの情熱は増すばかりだ。求道者の羽生は、過去をどう捉え、モチベーションに昇華させているのだろうか。
「今までのことがあったから、今の表現力につながっていることは間違いないです」
五輪2連覇の偉業を筆頭に、ジュニア、シニアとも主要タイトルを総なめにした「スーパースラム」を達成。競技者時代の全ての経験が血肉となっていることを認めつつ、言葉は熱を帯びていく。
「今まで僕が一番、競技時代の時にきつかったなと思っているのが、小学校4年生の後半から6年生の11月くらいまでなんです。そこが僕の一番のスランプだったと思っています。時期的には、めちゃくちゃ早いじゃないですか」
東日本大震災で被災しながらも2014年ソチ五輪を制覇。度重なる負傷と向き合いながら連覇を飾った18年平昌五輪。そして、絶望を見たコロナ禍を乗り越え、前人未到の4回転半ジャンプに挑んだ22年北京五輪。多くの国民が知る軌跡から得た成功ではなく、幼い頃の原体験が今も羽生を衝き動かしているのだという。
「震災でもコロナでもないんですよ。正直、自分がただひたすらに一番きつかったのは小学生の高学年の時代だと思っています。いわゆる、本当に自分にとってはすごく以前のことが、いまだに自分の根幹をつくってくれているんですよね」
小学4年の秋。2004年12月に羽生はフィンランドでの国際大会で初優勝。だが、直後に練習拠点のリンク閉鎖により、人生初の挫折を味わうことになる。自宅から遠いリンクへの往復を余儀なくされ、練習時間が激減。同世代が伸びていく中で取り残された感覚を覚えた。大会でも満足いく結果が出せなかった。
「もちろん、いろんなことがあって30歳になりました。フィギュアスケートに対しての向き合い方や考え方は日に日に変わるけど、あの小4、小5、小6のつらかった時に比べてみたら全然やれる。あの時の悔しい思いがあったら、一生強くなろうと思える。そういう感じがいまだにしているんです」
心身とも未完成の小学生年代で感じた挫折は、強烈な経験として羽生の記憶に刻まれている。先が見えなくても、常に手を伸ばし続ける――。当時に羽生結弦の思考が形作られ、その後に訪れた困難も乗り越えてきた。全力で生きる本能が勝るからこそ、輝かしい過去に浸ることはないのだろう。
羽生は競技者時代に語ったことがある。
「小さい頃に悔しさや負けをひたすら経験してきた。練習できないつらさ、自分が伸び悩むということを本当に小学校、中学校くらいで全てもう学んできてしまっている。それは今の自分がスケートをやっているときにすごく為になっている。苦しくても何とかやりきれている精神的な強さの基になっている」
常に自分を更新し続けるアスリートの脳内は、輝かしい思い出だけで埋め尽くされているわけではない。挫折や後悔、無力感……自分しか知り得ない過去との対峙が、日常に緊張感を吹き込む。プロとなっても、その闘いは続いている。
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