人間の限界に挑戦するアスリートたち。肉体と精神をギリギリまで戦い続けるからこそ見える世界がある。競技はもとより、その裏側で起こっている人生の一端に迫る。【第二回羽生結弦 答えは自分の中にある。「自信の塊」9歳の自分との対話】
挑戦こそ羽生結弦の人生
2022年北京五輪に、孤高の挑戦者がいた。フィギュアスケート男子の羽生結弦(27=ANA)。国際大会の主要タイトルを総なめにする「スーパースラム」を男子で初めて達成した冬の王者だ。2月10日のフリーで前人未到の大技クワッドアクセルに挑み、転倒こそしたが国際スケート連盟(ISU)の公認大会で世界初認定。
「全部出し切ったのが正直な気持ち。明らかに前の大会よりも、良いアクセル跳んでましたし。もうちょっとだったなと思う気持ちも、もちろんあるんですけど。でも、あれが僕の全てかな」
結果は4位。それでも、挑戦を貫いたからこそ万感の思いがわき上がってきた。
アクセルはフィギュアスケートのジャンプ6種で唯一、前向きに踏み切るため半回転多く回る。クワッドアクセルは文字通り4回転半。ISUが定めるジャンプ基礎点で最高難度(12.5点)に設定されているが、成功者はいない。4回転ルッツとの差もわずか1点。あまりにリスクを伴う諸刃の剣だ。
「4回転半へのこだわりを捨てて勝ちに行くのであれば他の選択肢もいろいろある」
羽生自身も痛いほど分かっていた。ルッツやループなど他の4回転を組み合わせ、完成度を高める道もあった。だが、羽生が求めたのは他人との戦いではなく自分との闘い。
「自分が北京五輪を目指す覚悟を決めた背景には、やはり4回転半を決めたいという思いが一番強くある」
決意は揺るがなかった。
'14年ソチ大会、19歳で初めて栄光をつかみ取った。'18年平昌大会では、右足首の負傷を乗り越えて五輪2連覇の偉業を達成した。
「本当は平昌オリンピック獲って、辞めて、1年間プロになってしっかり稼いで…ってことを小さい頃はずっと思っていた」
昔から描いていた究極の夢を実現させた。だが、夢には続きがあった。ページをめくり、描き始めた新たな目標。それが、小さい頃から想像し続けてきた別の夢、超大技クワッドアクセルの完成だった。
未知への挑戦が生きがい
2018―19年シーズン後、羽生は本格的に練習に着手した。練習拠点のカナダ・トロントでは空中感覚を養うために補助器具ハーネスをつけて5回転ジャンプにも挑んだ。リンクと自宅の往復の日々を「修行僧みたいな感じ」と形容し「4回転半のために生きている」とも語った。世界一美しいトリプルアクセルを跳ぶ羽生でさえも、そこに1回転を加えることは至難の業。それでも、未知への挑戦が生きがいだった。
コロナ禍により'20年3月の世界選手権が中止。世界各国で行われる'20年10~11月のGPシリーズは感染や移動のリスクなどを考慮し、欠場を決断した。孤独な練習で「暗闇の底に落ちていくような感覚」となり、他のジャンプも乱れ、トリプルアクセルも跳べなくなった時期もある。今季は右足首を再び負傷し、'21年11月のNHK杯を欠場。どんなに苦しくても、辞めたくなっても、諦めなかった。
「アクセルが跳べないと、満足できないので、一生」
本能が羽生を衝き動かし続けた。
残り8分の1の回転まで近づいた'21年春の時点で総トライ数は1000回以上を数え、それ以降もどれだけ氷に叩きつけられたか分からない。
「何回も何回も体を打ちつけて、ほんとに死ににいくようなジャンプをずーっとしていた」
体操や陸上の理論などと照らし合わせた時も、2時間ほどぶっ続けで挑み続けた時もあった。遠心力や慣性を取り込む筋力もついた。
「集中してやればやるほど、怪我が常につきまとう。そして、集中してやればやるほど、4回転以降回ることがどれだけ大変かということを改めて痛感した」
試合で初投入したのが'21年12月の全日本選手権(3回転半の判定)。それから1カ月半ほどの短時間でさらなる進化を遂げ、ついに公式記録に「4A」の文字を初めて刻んだ。
全世界が見た北京五輪のクワッドアクセルの軌道。約1秒のわずかな瞬間に、羽生の27年間の汗と涙が詰まっていた。「自分のプライドを詰め込んだオリンピックだった」と。フィギュアスケート界に新たな扉を開いた先駆者。そして、自らの流儀を貫いた求道者として。その挑戦は記録と記憶に刻まれ続ける。