人間の限界に挑戦するアスリートたち。肉体と精神をギリギリまで戦い続けるからこそ見える世界がある。競技はもとより、その裏側で起こっている人生の一端に迫る。【第一回 羽生結弦どれだけ氷に叩きつけられても】
自身が理想とする9歳の羽生
何かの壁にぶち当たった時、人は何を拠り所とし、再び立ち上がるのだろうか。フィギュアスケート男子の羽生結弦(27=ANA)の道標は「自信の塊」だった9歳の自分だという。
「技術的には今が間違いなく一番強いです。ただ、精神的にはあの頃が一番強くて輝いている」
'22年北京五輪。羽生は、前人未到の大技クワッドアクセルに挑んだ。前向きに踏み切り、4回転半で氷に降りる離れ業。転倒こそしたが、高く、鋭い軌道を描いて回りきった。不可能とも言われた大技が、世界で初めて認定された瞬間だった。
なぜ夢の大技にこだわったのか。羽生には常に対話する相手がいた。
「僕の心の中にいる9歳の自分がいて、あいつが跳べって、ずっと言ってたんですよ。ずっと、お前へたくそだなって言われながら練習していた」
自身が理想とする9歳の羽生は、どんな少年だったのか。当時は小学4年生。'04年10月の全日本ノービス選手権で初優勝を果たす。さらに、12月にはフィンランドでの国際大会に初出場して、頂点に立った。ちょうど10歳の誕生日を航空機内で迎えたばかり。トップの世界では、髪形を真似たことがある憧れの皇帝エフゲニー・プルシェンコらがしのぎを削っていた時代だった。
「自分もその世界に跳び込んだ気がしていた。ここから僕はスタートしたという気概を持っていた」
初めて王者となった誇りと自信が、羽生の原点だった。
人は成長していくことで、既存のルールに縛られていく。そこに当てはめ、何か意味づけをしようとする。
「子どもの頃は、そういうの何もなくて。ただやりたいことをやっていて、ただ自分自身が心から好きだなって思うことだったり。自信があるなと思うことに関してすごく素直でいられた」
スケートリンクの閉鎖や東日本大震災、多くの激闘を経験しながら羽生も大人になった。だが、今だからこそ改めて思う。「本当に自分が心からやりたいもの、心から自信を持てるものをスケートで出したい。たぶんそれが一番強い時の自分」だと。
内なる声に耳を傾けられるからこそ、今の羽生がいる
羽生は何度も過去の自分に救われてきた。連戦続きで摩耗していた'19年全日本選手権後のアイスショーで、平昌五輪でも演じた伝説的プログラム「SEIMEI」を舞い、自分にしかできない演技を再確認。シーズン中に演目を変更する決断を下すきっかけとなった。孤独な練習で精神的に追い詰められたコロナ禍の'20年秋には「ロシアより愛を込めて」や「春よ、来い」など過去のプログラムを舞うことで、原点に立ち返ることができた。
内なる声に耳を傾けられるからこそ、今の羽生がいる。それはクワッドアクセルの挑戦でも同じだった。「(9歳の自分に)今回のアクセルは褒めてもらえたんですよね。一緒に跳んだっていうか」。北京五輪では、踏み切りに至るまでの動作を9歳の頃に跳んでいた直線的な入りで挑んだ。
「実は同じフォームなんですよ。9歳の時と。ちょっと大きくなっただけで。だから一緒に跳んだんですよね」
多くの指導者や他競技のアスリートたちの言葉や理論…。全ての叡智を結集させた上で、最後の最後に信じたのは自らの皮膚感覚だった。
「ずっと壁を登りたいって思ってたんですけど、いろんな方々に手を差し伸べてもらって、いろんなきっかけを作ってもらって、登ってこられたと思ってるんですけど。最後に壁の上で手を伸ばしてたのは9歳の俺自身だったなって思っていて。最後にそいつと、そいつの手をとって一緒に登ったなっていう感触があった」
くしくも、両手を天に突き上げるフリープログラム「天と地と」のフィニッシュは、9歳の時に滑っていた「ロシアより愛を込めて」と同じポーズだ。演技を終えた6秒間、「あの時の自分と重ね合わせながら」。ある意味で、過去の自分にオマージュを捧げていた。
挑戦を貫いた五輪を終え、羽生は言った。
「いつか見返した時に、羽生結弦のアクセルって軸が細くて、ジャンプが高くて、やっぱきれいだったねって思える、誇れるアクセルだったと思っています」
磨き続けた技術、精神力。さらに過去の自分との対話によって、限界の先へと行くことができた。これまでも、きっと、これからも。羽生が導き出す全ての答えは、自分の中にある。