PERSON

2025.01.20

シニア世代を震え上がらせる。独居老人に襲いかかる“敵”の正体

2024年の東京国際映画祭で作品賞、監督賞、主演男優賞の三冠に輝いた『敵』。話題作を生み出すに至った創作意図を、吉田大八監督に聞いた。全3回の最終回は主人公に襲いかかる“敵”について。#1 #2

映画『敵』。吉田大八監督インタビュー。
『敵』
2023/日本 監督・脚本:吉田大八 出演:長塚京三、瀧内公美、河合優実、黒沢あすか ほか 配給:ハピネットファントム・スタジオ/ギークピクチュアズ
2025年1月17日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開
ⓒ1998 筒井康隆/新潮社 ⓒ2023 TEKINOMIKATA

儀助の平穏な日常を脅かす“敵”

――タイトルが表すように、儀助の平穏な日常に、あるときから、得体のしれない“敵”が侵食してきます。これが、儀助の想像なのか、妄想なのか、実体験なのかは観客に委ねられますが、海の向こうから敵がどんどん近づいてくるという時限爆弾のような強迫観念を描くにあたって気を配られたところはありますか。

原作はおそらく1990年代後半で、儀助がパソコン通信を利用しているという設定。ある日、アクセスすると、「敵です」という表題の書き込みがあり、「敵が来るとか言って、皆が逃げはじめています。北の方からと言うことです。恐ろしいので、ぼくも逃げる準備を始めていますが、でもどこへ逃げたらいいのだろう」という投稿を目にします。

小説にはその描写があるだけで、それを読んだ儀助の思考にどう影響したのかは、ほぼわからないんですね。でも、当時のネット空間独特の妖しさを知っている読者にとっては、そのパソコン通信の投稿自体が何かの呪いを起動したように感じられてしまい、だんだん怖くなってくる。途中から地の文も少なくなり、パソコン通信の会議室のメンバーがその投稿に侵されていく文のやり取りだけが羅列される。敵が何かはわからないまま、敵に侵されていく投稿が即物的に連なって、いつの間にか儀助の主観が客観的な状況を飲み込んでしまったような不気味さがある。

パソコン通信という設定は今だともう使えないので、スパムメールとウィルスの合わせ技のようなイメージに置き換えるしかありませんでした。原作にあった、呪術的なインターネットの怖さではなく、SNS上にあふれる匿名の悪意や巧妙なネット犯罪、その危機感に煽られた妄想、というように怖さの質を変えざるを得なかったのですが、自分としては、まあまあうまくいったと考えています。

――儀助のように大学でフランスの演劇史を教え、知識も豊富にあって、多様性を象徴するほどの知的な人が、匿名の「敵」の一言で、外から来るものを怖いと思ってしまう。それが憎悪や身を亡ぼすほどの悪意へと肥大化していくことは今の私たちへの警句に見えます。今の時代、いつ、自分が儀助になってもおかしくないと。

意識の上では、たくさん本を読んだり、ニュースに触れたりしながら、取捨選択のセンスを身につけて、自分はバランスを上手く取って生きていけると思っている。けれど、ちょっとしたきっかけで、そんな自信はかんたんに崩れてしまうのではないか。それが、自分にもいつか訪れるのではないか、という恐怖はすごく身に沁みます。

内側で完結したバランスを守るために攻撃的になろうと思えば、どこまでも攻撃的になれる。だからこそ、まず自分に刃を向け続けなきゃいけない時代なんだと思う。僕は原作の先見性と面白さは一番、そこにあると考えています。外から来るものに対して、aとbとcは受け入れられるのに、ある日突然、その続きのdだけはどうしてもダメになるっていうことはありうるじゃないですか。a、b、cは全然平気で、cとその先のdは何も変わらない。むしろaとcの方が遠い。それなのになぜか、dだけが敵になる。その断絶がいつ来るかわからないのは、外から来るように見えて、実は内から生まれているから。

老いること、死ぬことについて考える経験がもたらすもの

映画『敵』。吉田大八監督インタビュー。
吉田大八/Daihachi Yoshida
1963年生まれ、鹿児島県出身。大学卒業後、 CM ディレクターとして活動。数本の短編を経て、2007 年に『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』で長編映画デビュー。第 60 回カンヌ国際映画祭批評家週間部門に招待された。『桐島、部活やめるってよ』(2012年)で第 36 回日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞受賞。『紙の月』(2014年)では第 27 回東京国際映画祭観客賞、最優秀女優賞受賞。『羊の木』(2018年)では第 22 回釜山国際映画祭キム・ジソク賞を受賞している。

――儀助の年齢から、老いによる妄想や空想の世界を本物だと思い込むのだという説もあります。

いろんな解釈はあるんでしょうけど、筒井先生から、儀助は認知症ではなく、夢と妄想の人なのだと、最初に言われたんです。

人間を人間たらしめているもののひとつが理性。そのため儀助はできるだけ踏みとどまって戦おうとする。もちろん歳を重ねることで、どんどん負けていくんですけど、どんな負け戦であろうが、ちょっと男子的な言い回しを使えば、理性の最後の一兵に至るまで、自分の状況と戦い抜くんだみたいな気概を感じる。

儀助は、残された理性と、夢や妄想のバランスを注意深く取りながら、会えない人に会ったり、楽しかった思い出を追体験します。ただ、その夢や妄想の中で遊ぶことにはリスクがあって、一度入りこんでしまったらコントロールができない。妄想に振り回されながら、かろうじて理性で泳ぎ切る危険な遊びを何度も繰り返すうちに、最後は溺れてしまったのかもしれません。

――そういう意味では、とても甘美で恐ろしい自問自答映画とも言えますね。

本当に。僕にとっても自問自答させられる作品でした。自分が老いていくという、一番重要なのに、つい先送りにしがちなことに向き合わざるを得なくなった。でもそれによって、だんだん老いが怖くなくなってきたような気もします。『敵』について考えれば考えるほど、心の準備はできるんじゃないかな。まあ、その考えも甘いんでしょうけど、60歳前後の時期に、老いること、死ぬことについて集中して考えたという経験は、この先の70代以降を多少、生きやすくしてくれるんじゃないかと期待してしまいます。

――詳細は言えませんが、ラストの儀助の表情が恐怖のようで、喜んでいるようにも見えます。

ラストは割と笑ってほしいぐらいのことを長塚さんに伝えました。「やっぱり来た!」「逃げろー!」みたいな感じですね。結局、家が一種のお化け屋敷みたいになるわけじゃないですか。長塚さん渾身の、儀助の最後のモノローグも含めて、これ意外とハッピーエンドの映画なんじゃないかなと、作り終えて思うようになりました。

TEXT=金原由佳

PHOTOGRAPH=杉田裕一

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