2024年の東京国際映画祭で作品賞、監督賞、主演男優賞の三冠に輝いた『敵』。話題作を生み出すに至った創作意図を、吉田大八監督に聞いた。全3回の第1回は筒井康隆による原作『敵』の世界を映像化の際にどのようにして表現したかについて。
若いときは、どう生きるべきかと未来に向かうが、老境に差しかかるとどう死ぬかが懸案事項となっていく。古くは谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』、松本清張の『老春』、大江健三郎の『晩年様式集』など、作家が自らの老いに鋭い視線を向けたときの刃のような筆致は得も言われぬ興奮を引き起こしてきた。
そして、吉田大八監督により映画化されたことで、1998年に発表された筒井康隆の『敵』が描く、理知的な独居老人に潜む落とし穴にも大きな注目が集まっている。
自由に表現してきた筒井先生だから、面白ければ許してもらえる自信があった
――筒井康隆先生の文庫版の『敵』(新潮社)のあとがきに、文芸・映画評論家の川本三郎さんが「老人文学の傑作である」「老人の日常生活の細部、衣食住のディテイルを、虫眼鏡で観察するように冷静に、微細に観察しているのが面白い」と書かれています。吉田監督の映画化では原作よりもっとラジカルになり、毒味も効いていて、シニア世代を良い意味で震え上がらせる作品になったと感じました。
僕は中学生から筒井先生の作品をずっと読んで育った、いわば筒井チルドレンです。そのため、コロナ禍で仕事の企画が次々と休止する中、原作の『敵』を改めて読んで、これを映画にしたらと考え始めたときも、原作の世界観をできるだけこぼさずに映画に移し替えたいという気持ちで始めました。
でも、文学から映画へと移す過程で、どうしてもこぼれ落ちる要素ってあるじゃないですか。そのこぼれたものを補うために、また別の要素を加えながら脚色しました。ただ、自分としては結果的にとても原作に忠実な作品になったと思っているんです。(インタビュアーに対して)なので伺いたいのですが、どのあたりが原作よりラジカルになったと思われましたか。
――『敵』の主人公である渡辺儀助は10年前にリタイアしたフランス近代演劇史を専門とする元教授。妻亡き後、衣食住のすべてを手際よくこなしていて、料理へのこだわりもあり、知識も理性もあるダンディな人です。原作では、儀助が自分が死んだときのために、遺言書をしたためる場面があります。親から譲り受けた日本家屋を誰に託すか、まずは法律に則って甥への遺言書を書いた後、遊びとして教え子たちに財産を譲る遺言書を書く流れになっています。それが映画では、まず教え子に譲る遺言書を書いた後、かなり後になって甥に譲る流れが明かされるので、柔らかい発想をしていた儀助が結局は家長制度の価値観から脱しきれなかったようにも見えます。
なるほど、そう読み取られましたか。確かに、小説に描かれている通りに撮ったつもりでしたが、編集で場面を入れ替えるうちにニュアンスが変わったということですね。これは計算でやったことではなく、無意識の選択の結果です。自分では意図的に企んでいない効果が出て、ご覧になる側が色々、考察してくださったということだと受け止めます。そういった大きな視点で、小説と映画の違いを見てもらえるのはうれしいですね。
今すぐに思い出せるのは、例えば儀助が下血した以降の描写です。結局は肛門の入り口が傷ついただけだったことがわかりますが、僕はそこで悪乗りして、もう一度検査を受けに行き、最初の診察とは違う女医さんに、無様な格好で拘束されたあげく、内視鏡がするするっと蛇のように体内に入っていく場面を作りました。さらにダビング時に、そこに蕎麦をすする音を付けようと思いついた。
そういうひどい悪乗りができたのも、撮影前に長塚さんがこの場面について、これは儀助が過去の行いの報いを受けているんだね、と話されたからかもしれません。おそらく筒井先生ご自身も、こういう深刻なシチュエーションほど悪乗りをされるだろうという気がするんです。
――原作は1998年に発表されたものなので、25年以上前の世界観ですが、映画では昔のままではなく、2025年の同時代性を実に感じさせる内容になっていると感服しました。その一つが、瀧内公美さんが演じる鷹司靖子という女性の描き方です。靖子は儀助の大学時代の教え子であり、卒業後は編集者と作家という間柄。儀助は彼女が足しげく、自宅に打ち合わせに来てくれることを楽しみにしており、どこか好意があるのではないかと妄想しています。しかし夢か現実か、彼女から二人の間にある権力勾配について指摘される場面が、映画ではあえて差し込まれています。
そこもやっぱり無意識にそうなったという感じです。本の発売が1998年なので、その頃、執筆時に62〜63歳だった筒井先生と、これを撮影した2023年に59歳だった僕との世代差の反映なんでしょうね。執筆された時代は、男性が女性との関係において権力勾配があることに対し無邪気でいることが多少は許されていたけれど、今はそこに潜む暴力性を無視するわけにはいかない。現代に生きている以上、価値観としてそう植えつけられているはずなので、別にバランスを取ったつもりはないんですが、おのずと入り込んだということなんでしょうね。
原作には今の時代に映画として表現するにはちょっと難しいと感じる箇所はあり、そこを無意識に外しているのかもしれません。靖子のキャラクターも、おそらく今の時代を生きる僕の価値観が無意識に投影されてああなった。あと、老人像が時代によって変わるならば、孫世代の像も変わるだろうと考え、河合優美さん演じる大学生の設定はいろいろと付け加えました。
愛読者として、映画化するうえで、原作は神聖にして侵すべからずという意識になりそうですが、筒井先生の場合は、こんなに自由に表現されているんだから、僕だって自由に脚色して、それが面白ければ許してくださるはずだ、という自信がお会いする前から実はありました。
筒井康隆が言った「70代は全然若いでしょう」
――実際に筒井先生とお会いしてみてどうでしたか。
それが、筒井先生にお会いできたのはつい先日のことなんです。これまで脚本のやり取りは出版社を通して行っていて、その都度、感想やコメントをいただき、僕からもお手紙を出したことはありましたがダイレクトに戻ってきたことはなかったんです。
やっとお会いする機会を得て、想像以上に筒井先生は筒井先生だと感動しました。今、頚椎を傷められ、車椅子で生活を送られていますが、とてもお元気で。気配りは細やか、紳士的で、発言はドキッとするほど大胆、時々すごく意地悪で(笑)。
儀助役の長塚京三さんが79歳で、これが最後の作品になるかもしれないということをたまにおっしゃるんですけど、筒井先生に言わせると「いや、70代は全然若いでしょう」と。80代の頃も自分は小説を書けたし、金だって入ってきたし、酒だって飲めたし、年を取っているとは全く思わなかったけど、転んだ瞬間に年寄りになった。だから、僕は年寄りになってまだ一年生だと話されていて。この抜け抜けとした感じがとてもチャーミングで。ファンとしてはたまらなく幸せな時間でした。
――筒井先生は『時をかける少女』からはじまり、『七瀬ふたたび』『パプリカ』などが映像化されていますが、その著作の多さから言うと、意外と映画化は少ないとも言えます。吉田監督にとっては、どういうところが魅力ですか。
僕と同じ1960年代生まれの世代であれば、まず、小学校高学年から中学生にかけて星新一を読み始めるんですね。そこから、小松左京に行って、筒井康隆にたどり着くというのが大体みんなが通りがちなコース。筒井先生は、初期は短編も長編も結構、シュールなドタバタナンセンス。それ以前に僕が読んでいた赤塚不二夫の『天才バカボン』、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』、永井豪の『ハレンチ学園』とか、破壊的なギャグ漫画との共通点も多かった。
僕が高校生の頃には、筒井先生はラテンアメリカ文学に接近して純文学方向へ舵を切られました。その時期の『虚人たち』に、ほんと痺れたんですよね。好きだった音楽に例えて言えば、セックス・ピストルズからパブリック・イメージ・リミテッドへ、みたいな。パンクのシンボルが、最初にポスト・パンクに進化する。ファンの期待を大きく裏切りつつ、より深く鋭く変わることを全く恐れない。自分が世界で一番カッコいいと思っていた音楽に、日本文学で完全に拮抗しているように見えた筒井先生も、最高にカッコよかった。
――『敵』が評価を受けることで、今後、筒井康隆文学の映像化は、しばらく吉田監督が独占状態にできるかもしれない、という印象を受けますが、取り上げたい原作はありますか。
これは言ったらマズいのかもしれませんが……。筒井先生とお話ししたとき、『敵』よりは映画にしやすい原作はまだあるよ、とおっしゃったんです。その場にいた皆で、だったら最後の長篇と銘打たれた『モナドの領域』を、と盛り上がりかけたら、先生から『銀齢の果て』はどうだ? と光栄なお誘いをいただきました。
こちらは『敵』の対極にある老人文学で、お年寄りが『バトル・ロワイアル』のごとく殺し合う内容ですが、僕は以前読んだ時にそれこそこんなもん絶対映像化できない! と思ったんです。老人たちがひたすら惨たらしく死に続ける作品で、超絶スラップスティック。今後読み直してみます、と答えるのが精一杯でした。