戦後初の三冠王で、プロ野球4球団で指揮を執り、選手・監督として65年以上もプロ野球の世界で勝負してきた名将・野村克也監督。没後3年を経ても、野村語録に関する書籍は人気を誇る。それは彼の言葉に普遍性があるからだ。改めて野村監督の言葉を振り返り、一考のきっかけとしていただきたい。連載「ノムラの言霊」7回目。
環境を変える。「セ・リーグ向き」だった大竹耕太郎
今季、移籍して大活躍。一気にオールスター出場を果たした選手が3人いる。「現役ドラフト」でソフトバンクから阪神に移った大竹耕太郎、DeNAから中日に移った細川成也、「FA人的補償」でソフトバンクから日本ハムに移った田中正義である。
大竹は2022年まで通算5年間10勝9敗。うち3勝がセ・パ交流戦だった。今季前半戦は7勝1敗。1敗は日本ハム戦。防御率はセ・リーグ1位。すなわち、抜群のコントロール(9イニング平均与四球0.74個)を武器に、緩急をつける投球スタイルが「セ・リーグ向き」だった何よりの証明だ。
細川は高卒1年目、デビュー2試合連続本塁打を放つなど注目を集めたが、外野の選手層が厚いDeNAで埋もれた。プロ7年目の今季、大砲不在の中日でクリーンアップを任され、2ケタ本塁打を放っている。現役時代、同じ右の大砲だった和田一浩の打撃コーチ就任も追い風になった。
田中正義はもともと5球団がドラフト1位で競合した超逸材。ライバルが多いソフトバンクで芽が出なかったが、近藤健介のFA人的補償で移籍。150キロ台の速球とフォークで、プロ7年目初セーブと初勝利を挙げるや、トントン拍子の成長。以降、自信と風格すら漂っている。
3人とも環境を変えて、大輪を咲かせた好例である。
3年連続2ケタ勝利。「トレード」で生まれ変わった吉井理人
野村克也は監督時代、「再生工場の現場責任者」の異名を取った。
日本のプロ野球チームは全12球団。その意味では野村は4社の社長を歴任したことになる。また選手の「トレード」は、一般企業になぞらえれば「同業他社への転職」「中途採用」といえる。
野村が監督を務めた南海(現・ソフトバンク)・ヤクルト・阪神・楽天は、巨人・西武・ソフトバンクのように高い補強費を使って外国人選手やFA選手を獲得しなかった。逆に、「金をかけないで、チームを強くしてほしい」と野村に再建を依頼した。野村自身も「与えられた戦力で戦うのが監督の仕事」と割り切っていた。
1995年、西村龍次(ヤクルト)と吉井理人(近鉄)の交換トレード。
西村は前年、結果的に「危険球退場ルール」のきっかけとなった内角球を投じ、巨人との大乱闘事件を誘発させてしまった。一方の吉井はストッパーから先発に転向しながら2年間を経たが、中途半端な成績であった。
成績が振るわなかった吉井だが、「野村ヤクルト」に移籍して心機一転、3年連続2ケタ勝利を挙げるのである。
吉井はダルビッシュ有、大谷翔平(いずれも日本ハム)、佐々木朗希(ロッテ)を育て、さらにWBC投手コーチ、今季からロッテ監督を務め、名伯楽の誉れ高い人物である。
しかし、契約更改で社長室の壁を蹴り上げて穴を開けるなど、現在からは想像がつかないほど、現役時代は感情的になる投手であった。その吉井が言う。
「野村監督というと、ID野球のイメージがあります。もちろんデータを大事にしますが、困ったときに助けになる材料としてデータを使いなさいというスタンスでした。失敗しても、もう1度チャンスをくれる。選手をやる気にさせるのが、すごくうまい監督でした」
西武黄金時代の中心選手ながら、1995年シーズン限りで自由契約になった辻発彦。1996年に野村ヤクルトに移籍して、いきなり打率2位。「ベテランの私に気を遣ってくれました」と話す辻は、もう少しのところで、史上2人目のセ・パ両リーグ首位打者だった。辻は西武の監督として、2018年・2019年とパ・リーグを制覇している。
吉井にせよ、辻にせよ、野村の「選手への接し方」が、指導者としての礎となっているのは間違いない。
野村再生工場、1997年2つのヒット商品
1997年、「野村再生工場」から投打の「ヒット選手」が生まれる。投は田畑一也だ。1991年秋ドラフトのダイエー10位指名。指名全92人のシンガリ指名だった。
移籍前の田畑は敗戦処理ばかりで「投げたいのに、投げさせてもらえなかった」。
もともと、“伝説の高速スライダー”で知られる伊藤智仁に匹敵するストレートの質の持ち主だった田畑。野村ヤクルトに移籍してからは「投げられる喜び」をかみしめながら1球1球丹念にコーナーを狙って投げるようになった。結果、ダイエー時代の計4年間2勝だった田畑だが、ヤクルト移籍1年目の1996年に12勝12敗、2年目の1997年に15勝5敗をマークした。
打の1人は、小早川毅彦。1996年限りでチームを自由契約になった広島の大砲を、ヤクルトが獲得。1995年に31本塁打、1996年に97打点を挙げたトーマス・オマリーは契約が折り合わず、ヤクルトを退団していたからだ。
「小早川、お前は『1年目』に強いんだ。東京六大学で1年春4番打者で史上最年少の一塁手ベストナイン。プロでは1年目新人王だろう。ヤクルトでも絶対1年目に活躍できる」
野村はそのフレーズを、小早川と顔を合わせるたびに呪文のように唱え続けた。そして1997年、実に「4年連続開幕戦完封勝利」を狙った斎藤雅樹(巨人)から3打席連続アーチを放つのである。
値千金の3連発は、「97年ヤクルト」のすべてであった。余勢を駆ったヤクルトは対巨人戦19勝8敗で優勝にひた走るのである。
まとめ
転職で環境を変えるということは、本人に「心機一転して1からやり直したい」「一念発起するつもり」という意思がある。指導者も本人のやる気を汲んで、きっかけを与えれば必ず好結果が出るものだ。