歌手・五木ひろしが通算174枚目のシングル「だけどYOKOHAMA」をリリース。2024年で歌手生活60周年を迎えるレジェンド五木ひろしの半生に迫る。連載6回目。【#1】【#2】【#3】【#4】【#5】
どんなに忙しくても、子供の学校行事には駆けつけた
五木ひろしには3人の子供がいる。孫もできた。五木は溺愛している。五木自身は小学生のときに父が家を出てから、母親と兄姉の手で育てられた。今でいうシングルマザーの家庭。しかも、4人兄弟。母親は働いて子供たちを育てることに全力を注がなくてはならない。子供と遊ぶ時間などなかなかつくれない。だからなのか、五木は自分の子供に対して、過度に愛情を注いでしまうという。
「過保護なんですよ。子供をまったく叱れない父親です。自分が親にしてもらえなかったことを自分の子たちには全部やってきました。学校の運動会も学芸会も全部参加しています。
運動会で子供たちが電車になって、グラウンドをまわる競技がありましてね。僕は線路の脇で魚釣りをしているオジサンの役をやりました。ボール投げ競技では、球拾いもやりました。あれ、あの球拾いしている人、五木ひろしに似てるわよね? そんな声が聞こえましたけれど、似ているんじゃなくて、本物の僕です。
僕は日本のどこで歌っていても、学校行事には駆け付けます。夜、北陸でショーが終わって、翌日が子供の運動会だったら、必ず東京に戻ります。最終便も終電も終わっているので、深夜にクルマを飛ばす。早朝に東京に着いて、車内で仮眠をとってから運動会で走ったこともありました」
普段、子供たちを厳しく叱れない
ふだんの生活のなかで子供たちを厳しく叱ることができないことを反省してはいた。
「だから、ゴルフはとてもありがたかった。ゴルフを通してならば、子供たちを厳しく指導することができました。ゴルフは紳士のスポーツと言われますよね。マナーがたくさんあります。白洲次郎さんも生前におっしゃっていましたが、時間を厳守する。他の人のプレーを妨げてはいけない。速やかにプレーする。大声を出さない。
これらはゴルフに限らず、大人として、人として身につけなくてはいけないことです。こうした指導は、すなわち人としてのたしなみを教えることになります。ふだんは子供を甘やかしていても、ゴルフならば、厳しく接することができました」
戦後にGHQとの交渉に尽力し、吉田茂の側近として辣腕を振るった実業家、白洲次郎は「Play First」を身上としていた。
「軽井沢ゴルフ場の理事長でもあった白洲氏は次の組を気遣い、早くやろうぜ、のマナーを大切にされていたといいます。うちの子供たちにもPlay Firstの精神は徹底させました。まだ小さいころ、どんなに下手でも、次の組の迷惑にならないように、ゴルフボールを拾いに走らせていました」
五木とゴルフと人生
ゴルフは人生、と五木は思っている。
「ほかの競技者と競いながら、その実、自分自身と闘うスポーツだからです。ゴルフは身体能力を競うだけでなく、人間力の闘いでもあります。プレーに人間性がはっきりと表れる。フェアな人がいれば、ずるい人もいます。てきぱきしている人がいれば、愚鈍な人もいます。明るく楽しい性格も、暗い性格もプレーに表れます。
たとえば長嶋茂雄さんとのラウンドは常に楽しい。好調だろうが不調だろうが、常に明るくプレーされます。人としてお手本になります。ゴルフって、自分磨きになるスポーツですよ」
そもそも五木自身は20代でゴルフを始めた。
「1970年代の日本はボーリングブームで、ボーリング場がたくさんありました。僕もマイボール、マイシューズをクルマに積んで、時間を見つけては投げていました。ベストスコアは246でした。でも、急速にブームが去り、その後はずっとゴルフです」
始めたばかりのときは、どうしても周囲よりもスキルが劣る。
「ラウンドに出て、下手だとかっこ悪いでしょ。それが嫌なので、大げさではなく、1年間365日クラブを握りました。東京にいても、地方に行っても。地方でも早朝ラウンドするんですよ。7時にスタートすれば、11時過ぎには上がれる。
そして午後からは昼夜2回のショー。コースに出られない日もクラブは握ります。ステージ上で素振りをすることもありました。歌もゴルフも徹底的にやった。3年でシングルプレイヤーになりました。その後、ハンディキャップは“5”まででストップさせています」
毎日クラブを握ることで、自分とクラブを一体化させていった。
一番思い出深い、美空ひばりコンペ
五木にとってもっとも思い出深いゴルフコンペのひとつは、美空ひばりの誕生日コンペに招待されたこと。1985年の第6回のとき、五木は仕事先からかけつけた。
「場所は山梨県河口湖町にある名門、富士桜カントリー俱楽部です。僕は前夜公演のあった名古屋からクルマを飛ばしました」
ひばりと同じ組でまわった。
「ペリア方式のない時代なので、自分でハンディを申告します。僕はハンディ9で申告して、あの富士桜の難しいコースを9オーバーでまわりました。なにからなにまでうまく行きました。自分で自分にびっくりするほどでした。神様が手を差し延べてくれたとしか思えません。1985年は、ひばりさんの最後のコンペになりました。尊敬するひばりさんに自分の最高のゴルフをお見せすることができた。思い出深いラウンドになりました」